いのちを生かす

先週末、白馬村落倉高原にある「深山の雪」では”いのちを生かすWS”が行われた。
「深山の雪」は、東日本大震災の津波で家族3人を失い(娘の汐凪ちゃんは現在も行方不明のまま)、福島第一原発の事故によって避難を余儀なくされた木村紀夫さんと長女、愛犬が暮らす家であると同時に、震災をきっかけとして、これからを共に考えようとする人々が集う場所。
深山の雪での「いのちを生かすWS」は今回で3回目。
毎年協力してくれている友人のハンターが狩猟で獲ったニホンジカを、参加者自らが解体し精肉することをつうじて、鹿のみならず、生命の繋がりについて、い ま自分がどのような時代を生きているかについて、そしてまた、これからをどう生きるかについてを共に考えるための貴重な機会となっている。
このWSを開催する意味について、深山の雪の木村紀夫さんが書いているので、こちらも是非読んで頂ければと思う。
https://www.facebook.com/media/set/…

このWSの数日前、私は長野市のお隣り、飯綱町で炭焼きの仕事を見学をさせてもらった。
既に30年以上炭焼きを続けている炭焼き職人の佐藤さんは、炭にする原木を山で自分で伐り出し、窯のある作業場へと運び入れ、炭にしやすい長さに束ね、炭 焼き窯に火を入れる。「自分は殆ど何もしないし炭焼きのことなんて何もわからない」…と、けっして楽じゃない炭焼き作業を底抜けに明るく語る奥さんと二 人、3つある炭焼き窯に数日ずらして火を入れるそうなので、約一週間かかる一連の炭焼きの工程が次から次へと続いてやってくる。
原木の伐採、運搬、薪割りなどには機械を使っているとは言え、炭焼きは基本殆どが手作業。熟練の技の凄さはもちろんだが、なにより、こうした人がこの時代にいてくれることに、言葉にしきれない嬉しさを感じる。
石と土を積み重ねてつくられた極めてシンプルな炭焼きの窯。煙道から立ち昇る煙の色と温度で窯の内部の状態を判断することで炭の質を調整するのだそうだが、季節の違いやその日の天候、原料となる木の乾燥具合などが炭の質を大きく左右するのだそうだ。

つい最近まで…たった50〜60年前までは、炭は暮らしに欠かすことのできない燃料として重宝されていた。そうした木炭が化石燃料と呼ばれる石炭へ、さらに私たちの暮らしのエネルギーの主力は石油や天然ガスへと急速に変化した。
日本の戦後、日本の高度経済成長期をよって得た「豊かで快適な暮らし」は、エネルギー革命とも言われる急速なエネルギーシフトがもたらしたものとも言える けれど、このあまりに急激な変化、そして、未だ留まることの無い「豊かで快適な暮らしの追求」によって、目には見えないたくさんの歪が生まれ、そうした歪 の一部はやがて深刻な社会問題となって表面化しているのだ。

自然の中に生きる鳥や獣の一部が人間社会にとっての「有害鳥獣」として指定され、長野県に限ってみても一年に4万頭を超えるシカが有害駆除や狩猟によって捕獲されるようになっていることもそうした歪の現れ。
少なくとも、木炭が日々の暮らしにとって欠かせなかった時代には、これほどまでに野性の鳥や獣が社会問題化していなかったはずだ。
いま長野県のみならず、日本中の山村人口は急速な減少傾向にあり、かつて多くの人々が暮らすことによって保たれていた里山環境は急速に荒廃しはじめている。
だからと言って、いまの日本が必要とするエネルギーの全体量を山村が供給することはほぼ不可能であろうことを思えば、そうした山村にいま、そしてこれから も暮らし続けることは容易なことでは無いし、そう簡単に人口が増えるとは思えない。これからの社会にとっての山村の必要性とは何であるのかは極めて重要な 私たち全体にとっての課題だと思う。

このところ薪窯で焼いたピザやパンが評判となったり薪ストーブが注目されていること、加えて、福島第一原発事故の放射能による影響もあり、薪の需要は増加傾向にある。
既に疲弊する林業界周辺では建築材よりも薪の方が高値で売れるようになっているとも言われている。
しかし、都市部での薪の流行がこの先いつまで続くかはわからない。薪で焼たピザやパンは自分自身も大好きなので否定はしないものの、なぜ薪なのか…という ことに対する理解が無いままでは、薪は単に燃料でしかなく、その背景にはそうした燃料を山から伐り出し、薪として生産し、それによって生活している人々が いることにはまず気付かない…。単なる流行だけでは、薪の需要と供給のバランスを持続的に保つことは明らかだ。

自分はかつて、たまたま選択した美術がきっかけとなり、当初は美術作品をつくるために、「目には見えない関係性」に興味を持った。
やがて、美術作品をつくることよりも、目には見えない関係性を人が感じるために美術、あるいはアートはどのように機能するのかが重要だと思うようになっ た。と同時に、美術に限らず「目には見えない関係性を感じるために有効な手立てとなるものは何か」に興味が移行して現在に至る。

自分にとっては、木村紀夫さんの震災後の生き方と彼のまわりに集まる人、その場所。有害鳥獣に指定される鹿とそれに関わる人。日々黙々とこの現代に於いて も炭を焼き続ける人と炭…。そうした人や、もの、場所こそが「目には見えない関係性」を紐解くための最も重要な鍵であり入り口だと思っている。
その鍵を開け、一歩踏み出すこと。
自分の思う美術とは、その一歩を踏み出すために必要なこの世を生きるための力の一つ…勇気のようなものか。
そしてそれは、美術家だけが持っていれば良いものでは無く、この世を生きるすべての人が持っているはずのもの、持たなくてはならないもの。
そのために何をすべきか。
一歩づつ…スーパースローでしか前には進めないけれど、そのうちにきっと、見たいものが見えてくるのだと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です