土を着る

今月発売の「たぁくらたぁ」44号に掲載されている記事の原文です。たぁくらたぁ では、他の記事とも関連付けて、タイトルを「秘密基地づくりの建築」としていますが、原文は「土を着る」としています。

「土を着る」

できることなら自分のこの一生を美術家でありたいと思いはじめたその頃、世の中全体は過剰なまでの経済拡大期の中にあった。
月の半分はアルバイト、残りの半分は有り金の殆どを作品制作に費やす生活。そんな生活が駆け出しの美術家にとってのあたりまえで、そんなあたりまえに慣れてしまっていた自分の中に、そもそも美術家とは何か、美術とは何か、美とは何か、自分がつくりたいものは何なのか、という疑問が沸き起こったのは、バブル崩壊から数年経った頃のことだった。
大学院在学中からの5年間、制作助手をしていた彫刻家・若林奮(2003年没)は、1955年、東京都西多摩郡日の出町の森の谷間に計画されていた二ツ塚廃棄物広域処分場建設の予定地内にあるトラスト地に、詩人・吉増剛造によって「緑の森の一角獣座」と名付けられた、「庭」の様相を持った作品を制作することによって、その建設に反対であることの意思を表明した。
この作品を巡る様々な出来事と社会の成り行きは、自分の中に「美」にまつわる様々な疑問が沸き起こる大きなきっかけとなったと同時に、「ゴミとは何か」について考えることは美術表現のみならず、自分の選択や判断の最も重要な自己基準となっている。

1999年の春、当時暮らしていた東京都国立市の住宅地の真只中にある、築40年の木造平屋賃貸住宅を借り受け、賃貸契約終了時には元の状態に戻すことを条件に大家さんの了解を取り付け、妻と二人、約半年かけて建物を全面改装することにした。
目的は「植物の棲家」をつくること。植物という生きものがそのまま自然であるということでは無いにしても、少なくとも自分がもっと自然について知るためには、否応なく自然と関係している存在に自分から近づく必要がある。
例えばそれが森であり山であり畑であり、自分にとってのそれはこの家であったということだ。
PlanterCottage(プランターコテッジ)と名付けたそこに、始めこそ自分たちが植えた植物ではあったものの、やがて植物たちは、そこが建物であったかもわからないほどに生い茂るようになるにつれ、昆虫や鳥たちが植物に呼び寄せられるかのように、様々な人もまたそこへと訪れるようになっていった。
プランターコテッジは、自分の中に沸き起こった「美」にまつわる様々な疑問から始まったことからすれば、美術表現ではあるけれど、それはまた建物であり、人が集う場所であることからすれば建築的であるとも言える。
いずれにしても、自分が何をつくりたいのかを知りたいがためにつくるのだとすれば、どうやってそをつくるのかについては誰も知るはずもないし、自分で考えて自分でつくるしかない。使える材料を探さなくてはならない。植物をそこで育てるからには土壌のことや気候のことも考えなければならない。そんなことを考えながらつくり続けるうちに、いつの間にか美術でもない建築でもない、そのどちらとも言える狭間を歩きはじめていた。

落ち着きがなく、いつも走り回っていた子供時代、秘密基地づくりが大好きだった自分は、秘密と言うからには人に見つかってはいけないはずなのに、それが完成すると嬉しくなって、友達を誘ってはその秘密を自ら公開していた。
そんな自分の秘密基地づくりの教科書は、学校の図書館にあった世界の様々な家の写真や絵が載っていた本、それと、バルサや竹、マングローブ、麻など、古代でも入手が容易な材料のみを用いた筏(いかだ)で南太平洋を漂流航海したことについて書かれた「コンティキ号探検記」だった。
土を固めてつくった家や、台地を掘ってつくった洞窟のような家、高い木の上につくられた家…、そうした土地の気候風土に合わせて生まれ、培われてきた、土着的・伝統的な建築を、ヴァナキュラー建築(Vernacular architecture)と呼ぶ。
その意味からすれば、 コンティキ号という筏もVernacular的であるとも言えそうだが、子供時代の自分がそこに感じていた共通性とは、秘密基地づくりに欠かすことのできない重要な要素である材料の確保についてのヒントだったのだと思う。
日本伝統の茅葺き屋根の古民家もヴァナキュラー建築と言える。そうした建物がつくられた時代にはまだ、建築家やデザイナーという職業は確立されていなかったし、技術に長けた工匠たちはいたとしても、少なくとも家づくりに必要な材料はその土地で産出されるものが使われていた。その土地の家はその土地に暮らす人々が互いに協力し合いながらつくっていたはずだ。建物がその専門家たちによってつくられるようになったのはつい最近になってからのこと。
人類の歴史からすれば人が暮らす家のその殆どは土着的・伝統的なヴァナキュラー建築であり、そうした家に暮らしている人々がいまも世界中にはたくさんいる。
高い効率性と生産性を目指し発展し続けてきた近代建築は、建築部材の殆どが厳密に管理され、工場での生産加工を可能にした。それによって建物の安全性は高まり、暮らすために必要な労力が軽減されたことは否定できない。こうした近代建築と比較すれば、それぞれの地域で産出する材料を使用し、その土地の気候に適したデザインを考慮しつつ、建てるために必要な知識や知恵の多くは口伝として人から人へと継承され蓄積されることによってつくられる建築との間には大きな違いがある。
どちらが正しいということでは無いにしても、ここで見落としてはならないことは、この発展によって得たものの代わりに失ったものは何であるのかという部分ではないだろうか。

昨年11月、およそ5年に渡って関わり続けてきた家づくりを終えた。建坪17坪の総2階、一般的な感覚からすればさほど広い家ではないし、近頃のハウスメーカーならば3ヶ月もあれば完成させてしまうような大きさだ。
にも関わらず5年の年月がこれに掛かった大きな理由は建築予算。とは言え、単純に予算が足りなかったからということではなく、限られた予算でつくるためには出来る限り、暮らす人が自分でつくるしかないと判断したからだ。「農業・環境・文化」をテーマとした家がつくりたいという施主の希望に対する自分の役割は、家づくりのテーマを具体化するデザインをすること。そして、「建物を自分でつくること」を最大限サポートすることだった。
電話一本で必要な材料のすべてが現場に届けてもらえる仕組みは、建築に要する時間を驚くほど短縮させてくれる。安定した品質とスピードの結果が材料価格であり、施工の素早さが家の価格を決める。
それが現代の家づくりの常識であるとするならば、その常識を崩すしかない。とは言え、家をつくるために材料は欠かせない。それなら材料が生産されるその最初の地点まで自分が行けばいいのではないか。
例えば、山に行って自分で木を伐る。そうすることによって、財布から出すお金を少しは抑えることができるかもしれない。たとえ安くならなかったとしても、何処で刈られた木であるのかを知るということは、少なくとも、その木が育った環境について知るということであり、それはこの家づくりにとっての大切なテーマなのだ。
そしてもう一つ。この家づくりでは、家づくりの作業によって出るゴミ、産業廃棄物として処理しなければならない廃棄物を出来る限り出さないようにすることを意識し続けてきた。それもまた、自分が最初の地点まで自分が行くことによって抑えることができる。産業廃棄物処分費用\15,000は、自分がこの家づくりに5年間関わったことで得ることができたご褒美なのだと思う。

国土面積に占める森林面積である日本の森林率は68.5%、国土のおよそ7割が森林であるそのいっぽう、木材自給率は約3割。約7割を輸入に頼っているのが現状だ。
使用する木材すべてが建築に使われるわけではないにしても、材料によって、建てる場所も、建てる家のデザインも、建てる人も、建てる方法も…、その行方は大きく変化する。
あらゆる職業が細分化され、それぞれの専門家が生まれることによって、高い効率性と生産性が実現し、それによって経済が活性化するという公式。その公式によってつくられる家。
それはまた、秘密基地のつくり方はもう誰も必要としなくなってしまったということなのかもしれない。

写真1:PlanterCottage:プランターコテッジ(東京都国立市)
猫の額ほどの僅かな地面に植えた数十種類の植物が建物を覆いつくす。

写真2:「つちのいえ」ロケットストーブ式ヒーター(長野県北安曇郡小谷村)
ロケットストーブの特徴は、そこにあるものを利用して自分でつくること。

写真3;個人邸のベランダ制作風景(東京都国立市)
そこにある材料は自然のものであるとは限らない。空き缶を積み重ねた上に土をぬる。

写真4:泥の家づくりワークショップ(千葉県船橋市、アンデルセン公園)
何も教えなくても、子どもたちは勝手に分担作業しながらつくる。

写真5:個人邸(長野県千曲市)
材料集めから完成まで、およそ5年。産業廃棄物処分費用は¥15,000だった。

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