何かが動き出しそうな気配が増している。世の中的に、自分的に。
いや、そもそも自分と世の中を区別することが可笑しなこと。
この世のいかなる出来事も存在も、すべては関係が網の目のように繋がりあっていて、自分と関係していないことなどこの世には一つもないのだから。
だから、世の中の何かしらの動きはかならず自分にも関係している。自分が動けば世の中もまた動く。
想像はできていたことだったけれど、ここ最近、図書館ギャラリー・マゼコゼの周辺が大きく変貌しはじめている。
おそよ30年もの間、殆ど使われずに扉の閉まったままだった土蔵づくりの倉庫に、自分たち家族が暮らし始めたのが10年前。善光寺の門前町の端であるこのあたりには、たくさんの空き家が目立ち、自分が暮らす町は確実に高齢化していた。そして今、既に何人もの人がこの町で暮らす限界を迎え、主のいなくなった家が1軒、また1軒と取り壊されている。
かつて自分が通っていた中学校の学区内。
自分の意識下にはこのあたりの町の風景や気配がいまもずっと横たわっている。
古い建物と共に醸しだされる風景とか風情とか。そういったものは単にノスタルジーとして語られがちだけれど、そこには古い時間から新しい時間まで、言わば時間軸が地層のように表れる。
だからと言って古い建物はすべて残すべきだと言うつもりはないけれど、少なくとも自分が美術家である以上、目には見えない時間軸を可視化するという点において、そこに大きな可能性を感じずにはいられない。
目には見えないもけれどこの世に確実にあるもの。
ヒトにはそれを捉える力があり、その力によってこの世の生命バランスは保たれている。
いくら知識を蓄えても、いくらテクノロジーが進歩しても、ヒトがこの世にあって目には見えないものを感じる力を失ってしまったらこの世のバランスは何一つ保たれない。
例えばそれが建物と共に醸しだされる風景だったりするだけで、電車の中で席を譲る情景に出会ったり、新緑の木々の様子に気付く瞬間だったり…そういった風景や瞬間が人がヒトとして生きるために必要な最も大切な力を育む原動力であるはずだ。
自由党解散から令和新選組となった山本太郎氏の街頭演説を聞いた翌日の昨日は、信州発!持続可能な農業国際シンポジウム/〜長野から有機農業の波紋を打ち出そう〜 に聴衆として参加した。
どちらの内容も共感できる部分は多くとても興味深いものだったけれど、それはそれとして、自分は街頭演説を聞いている人とその周辺との間にある何か、シンポジウムが終わり会場から一歩外に出た時に感じた何かが気になって仕方ない。
山本太郎氏の呼びかけも、シンポジウムでの呼びかけもとても重要で大切なメッセージではあるけれど、自分が感じた何かこそが、何よりもいま最も重要である気がするのだ。
そしてそれこそが自分にとっての一番の興味であり、自分が立つべき場所はここだということを強く感じた。
旧来の国家や地域などの境界を越え、地球規模に拡大して様々な変化を引き起こそうとするグローバリゼーションは関係によって紡がれ続けてきた生命の網の目を解き、解体し、新たな壁をつくって生命を分断しようとしている。
私たちが超えるべき境界はそこではない。
なぜ自分はこれほどに美術…Artにこだわり続けるのか…いまもまだその答えは明確に出せないままだれど、少なくとも美術もArtも、ヒトの持つ目には見えない力と大きく関係していることは間違いない。
そしてまた美術家の役割とは、その力についてを深く考え、常にその力の育みの傍らにいること。
そのことを忘れないように、時間の断層を眺めたいと思う。
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