芸術=資本

働き方改革だとか生産性の重要性や効果的な取り組みについて語られるシーンに出くわす度に、そうした論調そのものにまったく興味は湧かないものの、こういった指標だとか基準とかが私たちの心理、延いては社会全体にもたらす影響は極めて大きいことを考えれば、これもまた関係によって紡ぎ出される社会という網の目として無視はできないと思う。
 
そもそも経済的指標も経済活性化策と称するものも、広範かつ複雑な現象である人間社会の秩序を如何に保つかのための方策の一つにすぎない…。
そんな言い草だからあなたはいつになっても稼げないのだ…と言われるだろうけれど、経済とは物事が人と人の間に生じる生産活動を調整する社会システムであるにせよ、物事とは時間の経過と共に変化するのが当然であることからすれば、経済の目的とはこの世の不安定さを如何に安定な状態へと調整するかにあるということなのかもしれない。
 
しかし、はたしてこの世に安定などあるのかと思う…。
生まれてから死ぬまで…日々変化する不安定極まりないこの世を如何に感じ、如何に生きるかによってのみ、自分がこの世を生きていると実感できると思っているような自分は、そもそも安定に対して疑いの気持ちすら持っている。
安定を敵とまでは言わないまでも、安定を供給しようとする社会システムに依存しすぎたら、自らの力で問題を解決しようとする楽しみが失われてしまうと同時に、生きる力を失ってしまいそうで空恐ろしい…。
でも現実には、安定や安心を供給する社会システムが、自分には幻想に近く感じる安定こそが資本主義経済を生き長らえさせる大きな原動力となっているし、米大統領が掲げる自国第一主義のようなポピュリズムや各国で台頭するナショナリズムの背景にあるものもまた安定という幻想なのではないだろうか。
だからそこには幻想ゆえにどうやっても歪みが生じる。その歪みが格差や貧困という問題となって表れていると私は思うのだが。
 
日々変化する不安定極まりないこの世…
私がここで言う不安定さとは社会秩序が乱れたり混乱したり荒廃している状態ではなく、自然な状態、あるいは予想しきれない状態に近い。それは別に恐れ慄くような状態ではなく、もともと私たち人間が生きていた状態。
不安定を生きるには不便さが伴うけれど、そこでは人が常にこの世と共にある気がする。
 
私が思う「美」もそこにある。
不安定さを不安として感じるのではなく、不安定さが自然であり、人もまたそうした自然の一部であると感じるためにあるもの。
不安定さを伴なうこの世を人が生きるための力と共にあるもの。
 
1979年、ドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスは、貨幣ではなく人間の創造力こそが経済を動かす資本である…と、旧マルク紙幣に「芸術=資本」と書きこんだ。
かつて憧れていただけで理解が追いつかなかったボイスの社会彫刻活動について、ようやくその意味が少しだけわかってきたような気がする。
 
いま社会には美が大きく不足している。

shihon

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