祈る気持ちのあるところ

 
2011年の初冬。「網膜中心静脈閉塞症」を発症したことによって右目の視力は著しく低下。数回の手術を施したものの、右目の視力低下は改善されないまま現在に至っている。
それは、同じ年の春。口腔内粘膜に突然あらわれた症状が、長い検査の末、「抗ラミニン332 粘膜類天疱瘡」という病気によるものであることが判明。ステロイド薬と免疫抑制剤併用による治療が始まって5ヶ月程が経過した頃のことだった。
 
現在、国の特定難病162として登録されている「類天疱瘡」(後天性表皮水疱症を含む。)は、自己免疫が体内の特定の抗体に対して誤作用してしまう自己免疫疾患で、この病気の全体の患者数は約7100人(類天疱瘡は約6,850人)。発病の機構は不明。効果的な根治療法も確立されていない。
自分の場合の抗体はラミニン332と呼ばれるたんぱく質の一種。生体接着剤とも呼ばれているラミニン332は、皮膚細胞間の接着に対して非常に重要な役割を担っているそうだが、体の各所が必要とする細胞組織間の接着力が自己免疫の暴走(誤作動)によって阻害されてしてしまうことによって発症するらしい。抗ラミニン332によって発生する類天疱瘡は、100万人に1人程度とも言われているほど稀なものだそうだが、最近の研究では、粘膜組織によって形成される胃や肺を始めとした内蔵とラミニン332との関係、それによる癌の研究も様々されはじめているという。
 
右目に対するでき得る処置は終わり、これ以上の視力の回復は難しいとの見解と、類天疱瘡の症状がおさまっていた翌年の夏頃。
担当医師からは、類天疱瘡に対する予防的治療方法は現在のところ、ステロイド薬と免疫抑制剤の投薬が最も効果的であると考えられていること。この病を抱えている患者は皆、基本的には一生、この予防投薬を続けることになる旨の説明を受けてはいたものの、それをそのまま受け入れることには疑問があった。
その理由は、発病の機構は不明、効果的な根治の方法も確立されていないとするならば、投薬による予防効果もまた定かではないのではないか。加えて、「網膜中心静脈閉塞症」の発症理由として、複数の原因が考えられ、単純にステロイド薬と発症との因果関係を証明することはできないとしても、類天疱瘡の治療方法として用いたステロイド薬投与により、眼底内眼圧が急激に上昇していたことを考えれば、可能性としてステロイド薬が無関係とは言えない。それらを総合して考えれば、予防的投薬治療は新たなリスクを発生させる可能性が高いと考えていたからだった。
医師からはその判断を肯定されなかったものの、その後自分は、ステロイド薬をはじめとする、その他一切の薬の服用を止めることにした。
 
あれ以来、いまのところ、類天疱瘡の症状は自分にあらわれていない。
もちろん、これは単に、ここまでの運が良かっただけのことかもしれない。自分が下した判断とは言え、身勝手、自分勝手だと言われれば、そのとおりだと思う。
もしもこの先、病気が再発すれば、家族はもちろんのこと、友達にも、周辺の人にもたくさんの迷惑をかけるかもしれない。
「責任」とは何かについて考える。
自分の無責任さなのかと。
 
最初の発症から8年。自分が抱えているであろう、「類天疱瘡」は未だ、国の特定指定難病162であることを思えば、その病気が根治されているとは言えないし、根治されていないとも言えない。
本当のことは誰にもわからないけれど、この7年間、粘膜類天疱瘡に対する予防的投薬治療は行っていないこと。それに加え、一切の薬を服用していない。これだけが唯一の事実ということになる。
  
人は誰も、自分の一生がいつ終わるのかはわからない。
病がどこから生じるのかもわからないし、どうやったら病が治るのかについても、ほんとうのことは誰にもわからない。
数えきれないほどの病名があり、いまこの瞬間も病に苦しんでいる人がいることは否定できない事実ではあるものの、人が抱える病がすべて表側から見えるとは限らない。
むしろ、病の大半は目には見えない。そしてまた、痛みは病気だけがもたらすとも限らない。
 
だから人は祈る。
それは、現代社会の中心的思考でもある、理性的で合理的な思考の対局に位置する姿。
だとしても、理解しがたい、非合理的な思考であるかもしれない祈りの先にしか、病と共に生きる道筋は見えてこない…。
祈る気持ちこそが、人をこの世に生かす最も大きな力なのかもしれないと思う。
 
明治45年、明治政府による神社合祀に対して、神社合祀反対運動への協力を求めた生物学者の南方熊楠は、東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎氏に宛てた書簡文中の一文に、その昔、伊勢神宮を訪れた西行法師が詠んだと伝えられている次の言葉を引用する。
 
「何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる」
 
熊楠が守ろうとした神社や神林に限らず、人の世界を越えた、畏敬すべき何かの力を感じ取る際に起こる自然感情。
祈る気持ちもまた、そうしたことに出会った時に生じるもの。
病を苦しみとしてではなく、そうした力を持ったこの世の生命のあらわれだと思えば、それもまた必要なことだと思えてくる。
 
 
「何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる」

…何がいらっしゃるのかは知らないが、有り難さに涙がこぼれる。

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