数年前に父が亡くなり、以来、目と脚に不自由さがある母と、いわゆる2世帯住宅的な暮らしを始めたと同時に、我が家は10年振りにテレビのある生活へと変化した。
自分に必要な情報の殆どはインターネットがあればこと足りるいま。テレビからの情報の殆どは必要のないものだと感じながらも、どれが正解か不正解かだとか、悪いのは誰かといった情報が絶えず溢れる光景は、まさにこの世間そのもの。世間とはどういったものかを具現化する役割がテレビなかもしれないと思いながらも、そうした世間がつくりあげる善良な市民という感覚に馴染めない自分がいる。
たった数年前どころか、つい先日起こった凄惨な事件さえも、別の新しい出来事によって絶えず上書きされ、最初から何事もなかったかのように忘れ去られてしまったかに感じる社会。
それは単純にテレビやインターネットによる情報過多が根本的な原因ではなく、自分は、そうなってしまう背景に「穢れ」という観念が大きく影響していると思っている。
忌まわしく思われ不浄な状態を示す「穢れ」は、質・程度の差こそあれ、物理的に触れることはもちろん、精神的に触れることによっても伝染すると見なされ、個人、共同体に悪影響をもたらすものとして信じられ避けられてきた歴史がある。
穢れという観念が日本に流入したのは、いまから1000年以上前の奈良時代後期から平安時代。
死、出産、血液などが穢れているとする観念は、元々はヒンドゥ教の思想であったらしいが、その時代、汚水や汚物の処理方法は現代のように確立してはいなかっただろうし、病に対する正確な知識も乏しかったであろうこと、さらに、この時代に日本に多く伝わった仏教にはヒンドゥ教的思想を合わせ持つものが多かったことを想像すれば、穢れという観念は、それ以前からあった神道の考え方とも結びつきながら、京都を中心に日本全国へと広がっていったと考えるのが妥当だと思う。
そうした時代に比べれば、生活環境は改善され、病気に対する知識も治療法も様々に研究されている現代に於いては、かつて忌まわしく不浄とされた死、出産、血などは、それはそれとしての知識や情報によって穢れの対象として扱われることは無くなっているかに感じる。
もはや「穢れ」という言葉そのものが日常的にはあまり使われなくなっているいま、考えてみると、「❍❍すると穢れる」とか、「❍❍さんは穢れている」といった言いまわしは差別的にも捉えられがちだし、行き過ぎた言動や行動は、裁判によって名誉棄損の損害賠償を命じられことさえあり得るのだ。
しかし、だからと言って、穢れ観念が世間から無くなったとはまったく思えない。
それどころか、現代の穢れ観念は、社会の表層から見え難くなればなるほどに、より潜在化し、新たな問題を生じさせているような気がしてならない。
>ある出来事が別の新しい出来事によって絶えず上書きされ、最初から何事もなかったかのように忘れ去られてしまったかに感じる社会。<
こういった社会をつくり出しているのは、社会に内在する、潜在的観念であり、自分はその観念の最も中心にあるものが、「穢れ」ではないかと考えている。
穢れという観念は、この世が「清らかなるもの」と「不浄のもの」、という考え方によって支えられている。
その関係は「生」と「死」に象徴され、人は生と死の狭間にあるこの世に生まれ、生きている以上、死を意識せずに生きることはできないし、かつて奈良時代や平安時代の人々は、人がこの世を生きることによって清らかさはやがて不浄さへと変質することを、「生」と「死」をつうじて理解していたはずだ。
人がこの世を生き、死に近づいてゆく一生は、言い換えれば、人はこの世を生きることによって穢れてゆくということでもあり、清らかなものが次第に汚れ、穢れてゆくことを恐れたであろう人々は、「死」を不浄なものとして、できる限り自分から遠ざけようとしたのだと思う。
とは言え、この世の清らかさを保つためには、誰かが忌まわしく不浄と思われることを担わねばならない…。
生きるために仕方なくそうした仕事に着かざるを得なかった人々がいたのかもしれない。そこに、その役割を担う人々や職業を遠ざけようとする社会がつくられてゆく…。
そうした人々が穢れた人々として、やがてその人々が穢多とも呼ばれ、清らかなるこの世を成立させるために、忌まわしく思われる不浄さをを担わされたと考えることができる。
この世が、「生」と「死」の狭間にある世であることは、いま現在も変わらない。医学の進歩によって、寿命がはるかに長くなったとは言っても、未だ「死」とは避けることができない現実であり、生命は巡り永遠に続くという考え方はあるとしても、「死」が「生」の一つの終焉の姿であることに変わりない。
牛や豚、鳥などの生きものを屠殺する役割であったり、暮らしの必要性として皮をつくる役割など、死を連想させる職業にある人々ばかりでなく。かつては、原因不明とされた疫病を持って生まれた人やその家族までもが、穢れとして、そうした人々を忌み嫌い、社会から遠避けようとした事実がある。
そしていま。ある出来事が別の新しい出来事によって絶えず上書きされ、最初から何事もなかったかのように忘れ去られてしまったかに感じる社会の背景には、事件や事故、スキャンダルの当事者を潜在的観念によって穢れたものとして捉えようとする世間があり、人々は、自分の清らかさを保つためにそういった穢れを遠ざけようとしているのではないかと自分は思うのだ。テレビは単にそうした世間の要求を実行しているにすぎないのかもしれない…。
もちろん、人々が意識的にそれを遠ざけようとしているわけではない。ただ、この社会を普通に生きようとすればするほどに、穢れ観念
は潜在化し、人々は無自覚に現代の穢れを見つけ出し、それを自分たちが生きるこの世から遠ざけようとしているのかもしれないということだ。
そして、自分もまた穢れを潜在化していないと言える自信もない。
しかし、この世に生きる以上、この最も難しい問題を無かったことにしてしまうとか、語られることすら憚れれるような社会の中で、善良な市民感覚を装うままでは、過去から現在にいたるまで、この世の不浄さを背負わされた人々の傷みは無くなることはないばかりか、誰しもがその対象になってしまうかもしれないような危うさを内在した現実があり続けてしまうと思うのだ。
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