「長崎平和宣言」 

原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。     (長崎平和宣言からの引用)

長崎平和宣言2019年(全文)https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080900471&g=soc

長崎平和宣言は、基本的には市長がつくり市長が読み上げるものだそうだが、市長一人の考えではなく、できるだけ多様な視点を取り込みつつ、世界に届く平和宣言にするために、長崎市では長年、「起草委員会方式」を取っているそうだ。 

「平和宣言文起草委員会」http://www.city.nagasaki.lg.jp/…/715000/p033022.html

長崎県長崎市に原子爆弾が投下されてから74年目の昨日。ラジオから流れる長崎市長による「平和宣言」を聞きながら、私たち一人ひとりの心の中に意思を生み、その意思によって表現することの重要性をあらためて強く感じた。 私たち一人ひとりの心の中に意思を生み、その意思によって表現することができる。その大切さとはまさに、憲法にも明記されている「表現の自由」という民主主義の基本理念そのもの。しかし、この国が犯した間違いを自国民の歴史として信じたくない、信じようとしない人々が増えつつあることを見越して人気を取りをしようとする政治家、ナショナリストを装ったエゴイストが、歴史否定の言説を弄し、「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」展という芸術の場に暴力を持ち込んだことを考えれば、平和宣言であろうとも危うさを感じるのは自分の考えすぎだろうか。

この国に生まれた自分をはじめ、私たちは誰も皆、過去の歴史の上に生きている。この国が犯した間違いを自国民の歴史として信じたくないという気持ちが生じてしまうことはわからなくもないが、だとしても、広島、長崎での一般市民への原爆投下は明らかな大虐殺行為であり、今もなお、それと同じ大量の核兵器がいつでも発射できる状況であることを否定できる人は誰一人いない。だからこそ、人が犯したこの過ちを、誰であろうと、二度と繰り返さないためには、私たち一人ひとりの心の中に意思を生み、その意思によって原爆の無い世界を実現させるしかない。にも関わらず、戦争における唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約に署名できないこの国の姿勢は、この平和宣言を無視するに等しく、また、先の戦争に於いて、祖国防衛の「捨て石」とされ、苛烈な地上戦で住民の4人に1人が犠牲となった沖縄がいまもなお抱え続ける傷みをも黙殺しようとしているに等しい。

世界情勢の不安定さが増しているいま…。国が最優先すべきは、憲法の改正でもなく、防衛力の増強でもなく、核兵器の全面的禁止の実現に向けた取り組みであるはずだが、内閣総理大臣の「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取組を主導していく…」というもの言いは、被爆当事者、被爆国の国民が生命をかけて実現しようとしている気持ちを嘲笑う戯言にすぎない。国がこれを再優先するように働きかけるのは、右派であれ左派であれ、国会議員であれ地方議員であれ、政治家はもちろんのこと、私たち全員が常に心の中心に置くべき意思であると思う。

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