山の入り口

我が家の犬に「おい、そろそろ朝ご飯…」と起こされた後に、自分用に紅茶を淹れる。お湯が沸くまでの僅かな時間、水がお湯へと変化すること…それはこの世の紛れもない真実。自分の五感で感じることのできるすべて。あらゆるフィルターを外して、この世のありのままの姿に向き合う絶好の機会が訪れたのかもしれないと思う朝。自分たちが管理運営する図書館ギャラリー・マゼコゼは長野市の旧市街地の西、西山地区とも呼ばれる山の入り口、善光寺の門前町にある。善光寺の山号(さんごう)は定額山。山号は例えれば寺にとっての苗字にみたいなものか。寺がすべて山号を持っているわけではないものの、国土の8割が山地でもある日本は紛れない山国であり、多くの寺が山中や山の近くに存在する。寺の山号については諸説あるようだが、民俗学者の柳田国男の『先祖の話』の中には、日本人は昔から死ねばその霊は家の裏山のぼっていくという事をごく自然に信じていたと書かれていることや、「万葉集」には「挽歌」といわれる死者をいたむ歌が多くあり、その歌の内容には、死者の霊魂が山や岩、雲や霧、樹木などの高いところにのぼっていく傾向がみられるということなどからも、仏教が日本に伝来する以前からあったアニミズム的な宗教観を含みつつ、仏教の日本的な独自の展開の表れが山号であるとも言えそうだ。自分たち家族が、長く暮らした東京から自分が生まれ育った長野市へと移り住んだのは今から12年前。そうすると決めた大きな理由は、自分がやりたいこと・できることと経済とのバランス。そして娘を育てる環境を考えてのこと。別の言い方をすれば、東京での暮らしに必要な経済を維持するためのペースが自分にとって速すぎたからとも言える。しかし実際、長野に移り暮らしてみて、暮らしに必要な経済を維持するためのペースはどうかと問われれば、残念ながらそれはほぼ変えることができていないと答えるしかない。そして、こうして社会の混乱さが増しているいまだからこそ、あらためて考えねばならないとことは「暮らしに必要な経済」であり「暮らし方」なのだと思う。いま起こっているこの混乱は、やがて二つのどちらかの集結へと至る。一つは人類活動の継続、そしてもう一つは人類活動の終焉。間違いなくそのどちらかであることだけは確かであるにも関わらず、この世に生きる人々の殆どすべてが、この混乱はいつ終わるかはわからないものの、いずれこの混乱が過ぎ去り世の中は継続すると信じているようだ。しかし、全世界の主要都市機能がこれほどまでに同時多発的に機能しなくなってしまう程のウイルスが蔓延しているという現実からすれば、人類活動そのものの終焉とてけっして起こり得ないことではないはずだ…にも関わらずこの世に生きる人の大半が人類活動は勿論のこと継続すると考えている。そのことからして、この混乱はある程度の想定の域を越えることなく起こっているということであり、終息方法を含め、世界は緩やかに来たるべきその後へと移行していると考えることができる。だからと言って陰謀論とかそういう類の話しがしたいわけではない。「ムー」世代の自分としては、陰謀だとか都市伝説だとかいった、その手の話題は嫌いではないけれど、ここでスル自分の想像は、あくまでも「いま」そして「ここ」に立つことによって起こる想像でありその範囲を超えるものではない。想像の全貌はとても長く複雑だが、あえて一言でその想像を言葉にするとしたら、「この世に暮らす大多数の人々にとってのこの社会は、いまよりももっとずっと便利になり、多くの人々がこの世がもたらす便利さ豊かさを受け入れ、享受する方向へとシフトしてゆく」そう自分は思っている…。そんな想像をしつつ、だからこそ「いま・ここ」であらためて考えねばならないことは「ここからの経済」であり「ここからの暮らし方」についてなのだ。そして、自分がこれからを生きるためにはどうしても考えねばならないことがある。それは、はたしてこの混乱の先に「自分」という価値がどれだけ残されるのかということ…。便利さと豊かさ。そこの部分と自分との関係性こそが目下、自分にとっての最大の懸案だ。

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