辺見庸 「眼の海」

人の眼とは、たとえ其処にあるものが眼の奥の網膜に写り込んでいたとしても、それを自分が 見よう と思わない限り、其処にあるもの として認識することができないということを忘れてはいけない。自分が見ている と思っているそれは、自分とは違う、何か によって 見せられているだけのもの かもしれないということを忘れてはいけない。私の眼はほんとうに見えているのか。いま見えている と思っているこれは、いったい何なのか。私は、ほんとうは何が見たいと思っているのか。私には見たいと思っているものがあったのか。人も車も神社も墓も、すべて海へと連れ去ったその海を、故郷である石巻のその海を見ながら、辺見庸の眼には何が写っていたのか。その眼の奥の網膜に写り込んではいるものの、見た と、認識されることのない、ただただ、そこにあるものたち…。震災後、世間にあふれ出した、人に優しく、力を合わせて といった言葉に対して、強い違和感を覚えたと語った彼は、内面の自己規制がはびこるなかで、あえて選んだのは「語ってはいけないものを語ることだった」という。2011年4月…あの日からちょうど一か月ほど経った頃、自分もまた石巻の海を見ていた。それから一か月後ぐらいだったか。ある日、口の中に小さな水泡ができていると気付いてから、その水泡は次第に増え、糜爛し、やがて水を飲むことさえままならぬほど口の中中に広がった。抗ラミニン332型粘膜類天疱瘡という100万人に一人程度に発症するらしい自己免疫疾患。原因は不明で対処療法と予防的処置しかできない病だった。ステロイド薬と抗がん剤系の薬の併用によって糜爛状態は治癒されたものの、ステロイド薬に過剰反応するらしい自分は、眼圧の値が常に高めだったため、ステロイド緑内障に注意はしていたものの、年末、眼底の奥の血管が破裂する網膜中心静脈閉塞症が併発。数回の入退院によってかろうじて失明は避けられたものの、右目の視力は殆ど無くなった。しかし右目の視力が殆ど無くなってしまったというのにそれほどの絶望感を感じてはいない。それは左目は見えているからかもしれないが、どうもそれとも違うのではないかと思ったりもする…。うすぼんやりと、其処に何かあるぐらいしか認識されない右目の視力ではあるけれど、それでも自分の右目はいまも何かを見ようとしている。眼という器官は脳そのものであるそうで、その脳でもある眼が直接外界の光を感じ、脳によって画像として変換し記憶することによって見える が成立している。それとはようするに、その脳がどうあるかによって見えるものもまた異なるということ。だから、人の眼とは、たとえ其処にあるものが眼の奥の網膜に写り込んでいたとしても、それを自分が 見よう と思わない限り、其処にあるもの として認識することができないということを忘れてはいけない。自分が見ている と思っているそれは、自分とは違う 何か によって 見せられているだけのもの かもしれないということを忘れてはいけない…と思う。わたしの死者ひとりびとりの肺にことなる それだけの歌をあてがえ死者の唇ひとつひとつに他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ類化しない 統べない かれやかのじょのことばを百年かけて海とその影から掬(すく)え砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ夜ふけの浜辺にあおむいてわたしの死者よどうかひとりでうたえ浜菊はまだ咲くな畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むなわたしの死者ひとりびとりの肺にことなる それだけのふさわしいことばがあてがわれるまで辺見庸 眼の海「死者にことばをあてがえ」全文

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