理系が理科系の略語であるのと同じように 文系は文科系の略語。一方、文化系は体育会系の対義語。美術家の自分は文化系(芸術系含む)なのか。まぁ、もはや自分が文科系(芸術を含む)であるかどうかなんてことは何の役にもたたないし、近しい友人達であれば既に知っている自分といえば、高校生時代は体操部(男子新体操部)インハイだの国体だのの体育会系男子。そこから逃亡して色々とあって、最終的に受け入れてくれたのが文科系(芸術系)。芸術系の中の体育会系彫刻科。彫刻の中の抽象系(…もう一方は具象系)。抽象系から現代美術系を辿ったものの、気が付けば美術の枠からはみ出してしまって現在へと至る。
自分ですらこれだけ紆余曲折あるにも関わらず、この社会は二極思考に縛られていて、私達は誰も皆、そうした社会に生きることを強いられている。ダーウィンの進化論提唱以降、進化と創造の論争は現在もなお続いていて、かつての冷戦構造、西洋と東洋、アメリカと中国…無理やりにでも二極構造の枠の中に収めようとする傾向は否めない。
精神医学の分類の中には、「境界性パーソナリティ障害」という障害があるそうだが、この障害にあたる人は、白か黒か、全か無か、敵か味方か、0か1かといった両極端な考えに陥りやすく、考えや行動が極端になりやすいという特徴から、二極思考や白黒思考と呼ばれている。しかし、現代社会そのものが二極思考状態の中にあることを思えば、個人の思考傾向が障害であるかどうかの判断は発達障害と同じでつき難しく、だからと言ってそれを程度の問題で片付けてしまうことは自分はどうにも納得がいかない。ある人を絶賛したかと思えば、ちょっとしたことがきっかけで、その人をこきおろしたり、親切にしてくれている間はすごく良い人と思うのに、少しでも思いに反することをされたりすると、あっという間に「最悪の人」「酷い人」と評価が逆転するといった傾向は多かれ少なかれ、日常ではよくある傾向ではあるものの、少しぐらいは正常、程度を超えれば障害と区別できることではないと思う。先ずもって大切なことは、この社会に生きる同じ人間である以上、等しく私達にはそういう傾向があることを認めること。そうした傾向の強い弱いは個人の問題ではなく、人間全体の問題であると捉える必要性があると思う。これを単に精神疾患だと分別することは社会にとっての都合でしかなく、それを個人が抱える問題であって解決すべきは個人だ としてしまえば、人は結局のところ薬や医学的治療に頼るしかなくなってしまうことは容易に想像できる。
人は、物事には様々な見方があることを学びながら成長する。境界性パーソナリティ障害が疑われる人はそうした考え方が苦手とされ、人を敵か味方か、善か悪かでとらえ、人間関係でトラブルを引き起こし易いとされる。そうした原因のひとつが教育環境だという見解も解らなくもないけれど、親の期待に応えようとして、自分を偽り良い子を演じてばかりいることによって、中途半端が認められない考え方が染み付いてしまうというような短絡的な捉え方には少なからずの疑問がある。人はそこまで単純ではない。たとえそういった親の期待があったことによって中途半端が認められない考え方になったとしても、そうした親や子供だとしても、社会はそれを個人の責任にはしないことが何よりも重要ではないのか。そうした事実を先ずは受け入れることこそが社会としての重要な役割であって、そうした社会はそれを望む私たちみんなでつくる。それが個人と社会の役割の違いであって、そこを私達は正しく認識し、それを前提に個人と社会、個人と個人が関係し合わなければ、いずれは分断と分裂によってつくられる高い壁に囲われた世界に生きるしかなくなってしまう…。
勿論、この問題がそう簡単なことではないことは重々承知しているつもりだ。けれど、既に分断と分裂の兆しがそこかしこに見えるようになってしまっているいま。高い壁を築いて互いが分かれるのではなく、関係を途切れさせることのないまま、この社会に対して生きづらさを感じる人々がこの社会を生き生きと生きられる可能性を探る場、つくる場がどうしても必要なのだ。
自分はこの人生をこうして生きると決めたことによって、生きづらさは逆に創造の糧にしてこの社会を生きてきた。自分のそうした経験とそこで培った知識は、社会全体からすれば極めて偏ったものではあるけれど、これが活かせる場を求める人が少しでもいるのであれば、それを共有できる場を本気でつくろうと思っている。
自分を育ててくれた親のことを悪く言うつもりはないけれど、あえて言うとすれば、自分は普通の親に普通に育てられ、そうした親が自分に要求する普通さを鬱陶しく感じてもいた。でもそのおかげか。鬱陶しく感じていたのは親というよりも、親も自分も取り巻く社会を覆う「普通」であることがやっとわかってきた。その意味からすれば自分は「普通とは何か」という疑問を常に抱えながらここまで生きて来たとも言える…。そんな自分を例にあげれば、たとえどんな環境で育とうとも、自分の中に芽生えた疑問、欲求に対して素直に従うこと。自分が自分に対して強くなると決めればおのずと道は開けると信じている。それは自分が歩むこの道がどこへ続く道かがわからなくても。自分の中に芽生えた疑問、欲求に対して素直に従うと決めるのは自分。そうした自分が強くなると決めた人たちが集い、共に生きられるための場をつくる。残された時間は僅かかもしれない…。共に場をつくる仲間を求めます。
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