「世代論」

気が付けば自分も、社会を世代によって考えたり論じたくなる気持ちもわからなくもない歳になってしまっている。子供の頃から予定とか目標を立てることが嫌いだった自分だが、いずれ若者ではなくなってしまっても「最近の若い奴等ときたら…」とだけは言わないようにしようと何となく思い続けてきた。もちろん、年齢や世代によって社会の感じ方には共通性や違いがあって当然だし、というよりもむしろ、その違いは目には見えない社会を、この社会を生きる人々が理解し合うための大切な違いであると思う。でも、「最近の若い奴等ときたら…」という言葉にはそういったことは感じない…というか、個性も可能性も打ち消すようでそこに愛を感じない。そういう気持ちを抱く理由も解らなくもないとしても、こういった全体責任的な無自覚、無責任な言動はこれに限らずこの社会には山とある…。そう言ってしまう人からすればそんなつもりは無いのかもしれないけれど、そういった無意識が社会の標準化を押し進め、人の感性は傷つき、人間の可能性が阻害され、結果的には社会としての進歩もまた阻害されるのだと思う。

地方社会の過疎化・高齢化という傾向は、もういっぽうの社会に対して人口の過密やそれに伴う様々な問題をもたらしていることは言うまでもない。人口と情報が集中する大都市では、様々な高度なシステム化が要求されるのも当然だが、社会システムそのものが高度になればなるほどに、社会システムにとって無駄や隙間と判断されるものは次々に縮小する、あるいは消滅してゆく傾向を辿ることになるだろうし、そう言ったシステムは社会の標準化や平均化を加速させると同時に、やがて大都市にとっては地方そのものが無駄や隙間と見なされのかもしれない。それは、地方都市が大都市のようになるということではなくて、社会がより効率化してゆくということであって、地方と都市の役割がシステムによって明確に分けられて行くということだと思う。

既存の学校教育は社会の変化や要求もあり、自分の子供時代と比較すれば様々なことが変わって来てはいる。その最たるものが体罰の禁止ということになろうか。もはや教育の現場ではそれが課外活動であろうと体罰厳禁が常識となっていることは言うまでもないけれど、それは単に教育現場に於ける対応策にしかなっていないがまた現実であり、学校から一歩社会に出てみれば、未だ自分たちの若い頃は…と言うだけならまだしも、体罰としつけは違うといった見解をそこかしこで耳にするし、痛ましい家庭内暴力が後を絶たないことを思えば、これは体罰とは何であるのかという定義の問題ではなく、そうした心理はなぜ、何処から発生し、やがて何処へと繋がるものなのか…といった全体性とそれに至るまでの関係性についての思考が未だ社会には決定的に欠けているということだと思う。体罰とは恐怖による支配の構造を形づくる元となるものであり、けっしてそれは容認されることではないけれど、自己決定権を放棄させるといった観点からすれば、体罰は既に社会的に広く用いられている悪しき構造そのものであり、自分たち自身もまた、この構造の内にあり、知らず知らずの内にその仕組みを利用したりされたりしていることは忘れてはならないのだ。

友人から、小学生である自分の子が、「どうせ全部先生が決めちゃうんだから。」と言ってドキッとした…というのを聞いて、そうした構造を力の弱いもの、子供へと向けられることを食い止めるためには、まさにこういった思考のやり取りこそが重要で、私たちは社会に於いて、この部分に全力を尽くさなければならないはずだとあらためて強く感じた。たとえそこでは、先生が決めたことに従ったとしても、本質的な自己決定権放棄をしたわけではないという意思を子供たちが無くさないこと。その意思を社会的弱者でもある子供たちのひとり一人が持つことがとても重要なのだ。

学校教育という人の成長にとって重要且つ難しい場に於いて、先生が決めざるを得ない状況があることは理解できる。私たちが選択している既存の社会システムは、学校教育という領域に深く侵入していることは明かだし、そういった社会システムと子供たちの間に置かれた先生たちの苦労も想像することはできる…。とはいえ、何よりも生徒や子供たち一人ひとりの意思を如何に尊重するかは教育者にとって最も重要なことであって、少なくともそこにシステムの効率化とか標準化という理由を持ち込んで欲しくは無いし、教育現場に携わる先生は勿論のこと、私たちの誰もが、相手の意思を尊重しない決定権の行使は、すべて体罰に等しいということを忘れてはならないのだと思う。

自分もまた人の親の一人であり、子供のために良かれと思う教育とは何であるかを考えることもある。いま思えば、学校や教育のことなど殆ど考えていなかったし、教育なんて糞くらえだ!と思っていた自分に、否が応でも考えるきかっけを与えてくれた娘には感謝しなくてはならないけれど、そのいっぽう、わが子ありきだけで教育について考えることなく、教育と社会との間にArtとものづくりを置くことができたことは、とても重要な意味を持っていると思っている。わが子の性質や家庭環境、経済状況といった視点だけで教育を考えていると、どうしても既存の社会システムの中にある教育へと不満が募る…。その点で言えば、わが子に囚われ過ぎることによって視野が狭くなり、人の育みを俯瞰として捉え難くなりがちだが、例えばそこに、自分の場合は美術を置くことによって、「美しい育み」といった概念が生じ、その概念の元で教育について考えることができるということになるか。その概念を他人に強要するつもりはないけれど、少なくとも正しさを論じることによって、結果、対立軸をつくることなく、教育を語ることができる方法になるのではないかと思っている。これもまた美術の大切な役割だということに教育は気付かせてくれた。勿論まだその道の途上にいるのだけれど…。

何故、先生が全部決めてしまうのか…といった疑問が子供の中に生じることによって、自分で決めることの重要さと共に、その責任と困難さに気付いてゆく…そうした思考のある場に体罰の効果は無い。簡単な道筋ではないけれど、悪しき社会の構造から脱するためにはそこにしか道は無い気がしている。

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