「共有と共同の場づくり」

作業場なのか倉庫なのかの境界線の無い、基地害美術家の研究室を眺めながら、なんとまあ、これがようするに、自分の頭の中ってことか…と思いながら、妻からは材料や道具たちのことは自分で何とかしてくださいね…と言われるのも、そりゃぁもっともなことだと思う。

乱雑に積み重なった材料や道具。切り刻んだ鉄屑やネジやペンキ。何処で拾ってきたかも忘れてしまった木の実や木の葉。いつか、何処かで、何かを感じたからこそ此処へと集められたモノたち。いまは未だじっとそこにあるだけのものたち…。作品や製品と呼ばれるものはそれはそれでもちろん大切で、自分をはじめArtistやものづくりたちが発する言葉とはそういったものだと思う。でも、言葉が声として発せられる前の、声を出すために息を吸い込んだあとのほんの僅かな沈黙とか、言葉と言葉のあいだの間だったりとか。それは思考と思考の断片を繋ぐための関係性であり、そうした関係性こそがこの世にとって最も大切なものだと思う。

このことろ、学校だとか教育だとかについてあれこれ考えてはいるけれど、これについてもまた、学校や教育は自分にとっては材料や道具のようなものであって、それだけを見ていてもこの世の全体は見えてこない。自分が学校や教育について考える必要があると思っているのは、感性と悟性を繋ぐために必要な概念からであり、既存の社会システムを覆う既成概念が私たちにとっての感性の自由を阻害するようなことがあってはならないと考えているから。

学校とは、教育とは、学びとは何であるのかについて考えてゆけば、結局は「自発性」に行き着いてしまうと自分は思っているのだが、…そうすると今度は、この自発性を如何に育むかの教育を考える…なんてことを言い始めるのが既存社会システムで、あくまでも子供という領域は自分たちの領域であるが如くの学校教育の現実には正直うんざりもする。自ら発するからの自発性を、教育によって教え育むといった思考性が、本来誰もが持つべき学びの自由性を阻害する。感性の自由が自発性から発するものであるとすれば、自分にとっては学校教育がどうあるべきかなんて本当はどうでも良いことだ。でも、自発性を学校教育が阻害するとすれば、自分は何かしなければ、と考えるだけ。学校も教育も変えたいとは思っていない。でも自分にできることはする。ただそれだけのこと。

ここ最近の自分は、ものづくりをつうじた共有の場をつくりたいと思いつつ、あれこれ考えたり、場所を探したり、人を探したり、話したりしながら、徐々にその動きを本格化し始めている。こういった発想は、東京に暮らしていた時からずっとあって、東京・国立市での場づくり(Plantercottage)も、長野市に移り住んでからの場づくり(MAZEKOZE)もそのための実験と実践の場であり、気が付けば既に20年以上もこの実験と実践を繰り返してきたとも言える。

ものづくりの場の共有、いまで言えばシェアスタジオということになるのかもしれないけれど、今も昔も貧乏芸術家たちや弱小モノづくりたちのスタートには無くてはならない発想で、かつて自分も埼玉県飯能市、東京都武蔵村山市と場所を変えつつも、長いことシシェアスタジオで制作してきた。シェアスタジオの最大のメリットは家賃の負担を抑えつつ、仲間との情報交流や意見交換ができることか。いまこうして何とか自分が生きていられるのも、そんなシェアスタジオからの様々な繋がりがあったからと言っても過言ではない。しかし、仲の良い友人とのシェアから始まるとは言っても、時が経てば次第に、考え方や進む方向性に違いが生じるのも当然。だからこそ、会話の機会はもちろんだけれど、互いが協力するという機会を如何につくり出すかといった共有するための共同がとても重要だ。最初の頃は、メンバーの展覧会の搬出入の手伝いだったりした共同作業が、やがてものづくりの仕事を頼んだり頼まれたりと、場所のシェアがモノやコトのシェア、そこには当然、ヒトからヒトの繋がりが生まれてゆく。

最初のシェアスタジオから、現在のMAZEKOZEまで。自分、あるいは自分と妻が行ってきた共有と共同についての実験と実践をつうじて、自分たちはいまも日々実に多くを学び続けているけれど、それはまた結果的に、この社会に於いて学校や会社といった何らかの組織に所属せずに生きるという生き方を実践するということでもあった。日々変化し続ける社会の中でのこの生き方は、不安定極まりない生き方であることは否定できないものの、共有と共同の場をつくり続けることをつうじて、自分は数えきれないほど多くの、ヒト、モノ、コトに出会い、またそうしたヒト・モノ・コトの関係性が自分たちを生かしているということを実感しつつ、困った時はこの関係性の糸を手繰れば必ずや何とかなる…といった、不確かな確実性とでもいうか、自分という存在が繋がっている関係性の糸を手繰れる社会を生きているという安心感は他の何にも変えられない。

考えてみれば、学校での学びはそれはそれとしてとても重要な学びの機会であると思う。何より、私たちは学校という場をつうじて社会とは何かを学ぶことができる。そこで学んだ知識や技術は学校を出てから、社会を生き抜くために必要な力となる。しかし目には見えない社会を学校の何処で学ぶのか…。それは例えば、授業と授業の間の休み時間だったり、昼食の時間だったり、すれ違いざまに交わす何気ない会話だったり。そういった点と点を繋ぐ部分に社会にとっての最も重要な部分があって、その先に全体が、社会とはどうやってつくられれているのかを見ることができるのだと思うのだけれど、現状の学校という仕組みは殆どその機能を果たすことができなくなってしまっているような気がする。さらにコロナ禍である…。テレワークやオンライン授業はそれはそれとして否定しないけれど、いま社会の分断は急速に加速し、目隠ししたまま、猛スピードで進むことを要求されるかの社会。こういった状況について行けない人がいるのは大人も子供も同じ。

そんなこんなで自分は、ものづくりというリアルな場を、つくり手が共有するだけの場ではなく、そういったものづくりのすぐ隣で、ものづくりの仕事を見たり、経験したり、実践できる場が持つ可能性と重要性を強く感じている。それが学校である必要はない。でも、これからの社会という道筋がほんの少しでもいいから見えやすくなり、自分が生きるために本当に必要な力について一人ひとりが自分で考えるための場がいま、どうしても必要だと思っている。共有と共同の場づくりを始めます。仲間を求めています。

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