「ウッドショック」

新型コロナウイルスの世界的蔓延に伴う、アメリカ国内でのテレワークの増加、都市部から郊外への移住増加、大規模な森林火災の影響などもあって、アメリカの住宅市場が活発化すると同時に、アメリカ経済を支えるための莫大な財政出動、低金利政策によって確保された資金が木材取引市場に大量に流れ込んでいるそうだ。こうした傾向にいち早くコロナ禍を抑え込んだ中国が反応し、世界中の木材を高値で買い付けていること、スエズ運河の座礁事故にもつうじる海運業界の物流事情による海上輸送運賃の上昇という要素も重なりあって、「ウッドショック」と呼ばれる木材価格の高騰状態が続いている。

これについての自分の理解は、先ず第一に日本は世界的コロナ禍という社会状況に対する想像力が足りていなかったということであり、木材の全体量が不足する状況の中で、必要な材木を買い付けるだけの力(資金力)を持っていなかったということなのだが、最も重要な問題は木材で起こっているこの状況は他の品目でも起こり得るといったことであり、この先、私たちはこうした状況にどう対応し、この先の未来をどう想像するのかが益々重要になってくるということなのだろう。

日本の末端に位置するものづくりである自分は、いまのところウッドショックの影響を感じていない。しかし日本の木材を巡るこうした状況は、既にコロナ禍以前から想像できていたこと。輸入材木が足りないのであれば、国産材に切り替えるという考え方は以前からあったし、これだけの山林があるのだから勿論そう考えるだろうけれど、木が建築材料になる迄には多くの時間と手間が必要だ。何よりも国産材となり得る木材のその殆どが日本の山地で生産されるからには、山地に近いところに木材生産に携われる人がどれだけいるのかを考えなければならない。その上、木が建材として活用できるようになるためには人の一生…少なくとも40年~60年の年数がかかる。しかし現状はどうかと言えば、山村の過疎化・高齢化はいまに始まったことでなく、そうした傾向に比例して里山が荒廃してしまっている状況は、その気になれば誰にでも解ること。そこから考えただけでも、輸入材を国産材へと切り替えることは簡単なことではないことは容易に想像できる…。

こうしたことを考えつつも、あえて無知無責任を承知で言わせてもらうとすれば、国産材木の生産と需要は、こうしたいまからでも高めてゆくべきだと自分は思っている。とは言え自分がそう思うのは、建築建材としてというよりは、「美的感性の育みの重要性・必要性」といった観点から考えてのことなのだが…。

日本という地理的視点、木という生物学的視点、山村という社会的視点 に繋がる山の暮らしは日本人にとってとても重要で、それをさらに紐解いて行った時に見えてくる「自然」と「生命」との関係の中に、日本ならではの「美」とその在り方、必要性があらわれるのではないかと自分は思っている。

自分としては、輸入材から国産材への切り替えの必要性はさておき、「美的感性の育み」の為には、既にあたりまえになってしまっている、人の暮らし方、働き方を捉え直す必要があるということ。そのことからすれば、コロナ禍というタイミングで起きたウッドショックは、土壇場の追い風となり得るのかもしれない。勿論のこと、木材をめぐる状況は単純ではないし、いまもなお疲弊し続けている山村やその周辺に人を近付けさせることは簡単なことではない。だとしても、現在の都市中心の社会システムが必要とする美あるいはArtだけでは既にこういった状況には対応出来ない。だからといっていまの美術やArtを否定するのではなく、都市ではない場所で暮らし、生きるために必要な「美」というものもあるということ。おそらくは、そうした「美」こそがこの社会全体の滞りを緩和し、そうした美的感性を持つ人々がいずれ、ウッドショックのような状況をつくらなくても良い新しい生き方をつくるのではないか…と思うのだ。

いま自分がイメージすべきことはそういった美のあり方を実践すること。ウッドショックに象徴される、グローバリズムの歪を修正できる最も大きな可能性は人が持つ「美を感じる心」その心を知るためには、いまは一度、人間が築いたものから離れてみる場と機会が必要だと思っている。

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