20日目の朝

山頂まで残りわずか。

明け方まで降っていた雨は既に止んでいる。

曇りとは言え、既に日の出の時間が過ぎて、地面から立ち上る水蒸気と周辺の植物の匂いが入り混じっているのか。

窓から見える泰山木の花は一輪だけ開いていた。

長野の梅雨は、朝方には雨が止んでしまうことが多い。

日中は晴れたり曇ったり、夕方あたりになるとまた雨が降り出す。

それはようするに、眠っている間もずっと雨音が聞こえているということであって、それはずっと以前から聞いていたような、それがいつのことなのかは覚えていないけれど、なんとなく外側の方から聞こえていた、あの音と同じであったような気もする。

自分の出発点がArtであり、その中でもコンテンポラリーアート(ContemporaryArt)であることは否定できないし、紆余曲折はあれど、いまもこうして自分がこの世の様々と繋がることが出来ているのは、過去から現在に至るまで、数えきれない多くの人々によって育まれ続けてきたArtという概念を用いてつくっているからであって、それがなければつくることは出来ていないのだと思う。

その意味からすれば、自分はこの世を生きるためにArtは重要で、この世を生きる限りはつくり続けるしかないとは思っているけれど、とは言え、もはやArtであるかどうかは大した問題ではなく、それよりも優先される感覚というものがある。

Artという概念は西洋社会で育まれた概念であり、芸術や美術は単にその日本語に訳した言葉ではなく、西洋という言葉に象徴される環境が、そこに生きる人の意識を形成し、そしてその人々が生きる社会をつくるためにある。

それは言い換えれば、人がその環境の中で生き続けるために必要な意識があるということであって、西洋で育まれたArtという概念がそのまま東洋である日本にとっての必要性ということではなく、「ここ」での必要性は西洋で育まれたArtでは無く、芸術であり美術だと自分は理解している。

それについて自分に気付かせてくれたのはArtなのだ。西洋社会を育んだArtを理解することによって、「ここ」が必要とするArtというものがあることがようやくわかってきた。

「ここ」とは日本のことでもありこの世のこと。

自分にとっての「ここ」についての理解を深めるためには、自分を取り巻くこの世。目に見えるもの、目には見えないものの両方を全体として捉えたいと思う…。

そんなことを考えながら、今日もまた山を登ることにします。

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