「imagination」

「美とは何か」について考えることは自分にとっての癖、と言うよりはむしろ呼吸に近い。

というか、そもそもそれは自分に限ったことではなくて、この世を生きる人間すべてが、美とは何であるかとか、美が何処でどのように必要であるかなんてことを考えるよりもずっと以前から、あたかも呼吸するのと同じように美を感じてはいるものの、一般的な理解からすれば、美はいわゆる芸術の領域に属するものであると思われてしまっていて、ましてや美を呼吸するのと同じように感じているという実感を持てない人が殆どなのかもしれない…。

という自分もまた、芸術であり美術、あるいはArtというきっかけが無ければそのことに気付くことは無かったし、正直なことを言えば、長いことArtの本流から逸れ、「美とは何か」について自分なりの方法によって考えてきた自分は、もはや既存のArtに対して殆ど興味がわかなくなってしまってはいるものの、美術の専門家が美を占有している状況があり続ける限り、美は何処にあるのかについて考え、そして、社会に対してそれについて問い続けるのが、美術家としての大切な役割だと思っている。

ウイルス感染症の世界的流行によって、社会全体が未だ出口の見えない不安の中にある。重苦しい気配は不安や恐怖ばかりのように感じるし、そんな不穏な空気を身体全体に吸い込みたくない気持ちになるのも当然か。

週末ともなれば郊外へと出かける人の多さを見たり感じたりしながら、そうした行動を感染が広がるから自粛するように訴えることは、この社会を覆い尽くさんばかりの不安と恐怖に対してどれだけの効果があるのだろうか と思ってしまう自分…。

勿論のこと、感染症対策はそれはそれとして大切なことだとは思うけれど、社会を覆うこの空気感が人間の精神に対して如何なる影響を及ぼすかについて考えれば、そこに対して対策を講じているとは思えないこの社会の現実には強い違和感と同時に極めて深刻な危機感を感じずにはいられない。

最も強く影響を受けるのは、この世に生まれ出て間もない子供たちであり、これからの社会を担ってゆく若い世代であることは間違いない。

福島第一原発事故と同じように…。

そうした子供たちや若い世代に対して、社会全体の幸福のために我慢を強いることが仕方ないことなのだ…と言うだけで、本当に社会の幸福など実現するのだろうか。

飲食店や病院の入り口にある感染予防の掲示を見るに付け、それがあたりまえだと思うようになってしまっているこの状況は果たして本当に仕方のないことなのだろうか。

社会の現実とは、過去のイメージが実現した姿であるとすれば、少なくとも想像の傍らに位置する美術家には、自分には人間の想像力に対しての責任がある。

こうした社会に生きながら美術家を名のっている自分に対する無力感を感じずにはいられないけれど、人間が呼吸するのと同じようにこの世の全体を感じ、その中には美もまた含まれているのだとすれば、その美のあり方こそが人間がこの世を感じ生きるための最も有効な免疫機能となり得ると自分は信じている。

美術家は芸術やArt・美術の領域の中で美について考え、語るだけではなく、

というよりもむしろ、

芸術やArt・美術という領域に押し込められ、閉ざされてしまっている美を社会全体へと解放することこそすべきことではないのか。

人間がこの世を生きる為にその美を使えるように後押しすること。

誰もが美を使えるようになることによって、社会を覆う不安や恐怖は徐々に取り除かれてゆくのではないだろうか。

自分には未だ、美とは何かについて明言できないけれど、少なくとも、美は芸術やArtの為だけにあるのではないといういうことだけは自信を持って伝えることができる。

私たちはいま、人間は美を必要としていることに気付かせてくれる大切な時を生きているのだと思っている。

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