「memento mori」

癌で入院中の母に週末の一晩だけの外泊許可が出て、天気も良く病院から家までは然程遠くもないので、車椅子を押しながら歩いて家まで帰ることにした。

コロナ禍という理由で通常は入院患者への面会は出来ないものの、末期癌など終末医療として用意されている看護ケア病棟に入院させて貰っている母には、事前に登録した2名(叔母と妻)だけは面会が許可されている。

癌の影響によって身体の衰弱は確実に進行しているであろうことが見て取れはするものの、いまのところは比較的穏やかな状態。

時折、意味不明な言動があるのは、人の魂が刻む時の流れというものは、時計が刻む一定間隔の時の流れとは違うということを伝えようとしているのかもしれない。

人は誰しも、この世に生まれたその瞬間から死へと向かって生きることが宿命付けられているのだとしても、いつの日か訪れる自らのその死を、希望に満ち溢れる出来事だとは考え難い。

とは言え、死が等しく人間に対して訪れること。さらに言えば、生があって死があることがこの世における生命の原理原則であることからすれば、如何なる生であったとしても死によってすべては同一になるということでもあって、別の言い方をすれば、少なくとも人の一生に於いては誰であろうとも、死は唯一平等であると考えることができる。

とは言え、勿論のことそれは死を推奨するという意味では無く、私たちが生きるこの社会構造はあまりにも生の観点ばかりを重視するがあまり、死の意味を見落としてしまいがちではないかということ。

例えば、尊厳死と安楽死すら混同して語られがちであることや、自死について語りづらい雰囲気など、死がすべて人間に共通している大切な出来事であるにも関わらず、自らの死生観はプライベートな事柄として留め、それについて他人と語り合うべきではないというような暗黙の気配が社会を覆っている気がするのは自分の思い違いなのだろうか。

医学や科学が飛躍的に進歩し、生命についての様々が解明されることによって、やがては今ある多くの病が治療可能な病になるのかもしれない。

そうした医学や科学の進歩や、それによって得られる恩恵をすべて否定することは出来ないものの、生が重視されればされるほどに死は忌み嫌われる存在へと追いやられ、経済はそうした関係性を糧に成長しようとするのは当然なのか。

命とは何処までも果てしなく続くものではなく、と言うよりも、一つの生が死を迎えることによって生が起こる。そうすることによって繋がり続けようとするのが生命。

生も死も同じく意味があるという生命として当然の、私たちの遺伝子の中に大切に仕舞われている原理原則を如何に私たちは守り継いで行くのか…。

人々が忘れてしまいがちなそのことを、地元の秋祭りにあげられる花火の音を聞きながら考えた。

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