「人間の社会 犬の社会」

オキシトシンは脳の視床下部で生産され、脳下垂体から分泌される9個のアミノ酸で構成されたぺプチドホルモンの一種。

そのオキシトシンの血中濃度が、犬の目を見つめたり、犬を撫でたりすることによって増加するという調査結果があるそうだ。

血中のオキシトシンの増加は人の幸福感と深く関係するらしく、その理由は、オキシトシンの増加に伴って分泌されるセロトニンという神経伝達物質にある。

言うまでもなく、人間という生き物は身体という物質と精神という非物質によって構成されていて、オキシトシンとセロトニンという物質が人間の精神に深く関係している。

物質と精神のどちらかが優位であるということではなく、人間は相互の関係によって形づくられているということであって,そのバランスが崩れれば病気になる。

そしていま(現在)…重要なことは、自分の身体と精神が関係し合っているというその感覚を如何に実感として捉えるかにあるのだと自分は思っている。

人間は社会の中で生きている。

それがあたりまえだとしても、その認識は実に曖昧…。

だからこそ人間社会は盲目的に社会的幸福感を如何に増大させるかを目標とすることを社会にとっての基準としようとしてきたものの、そもそも幸福という価値基準があるようで無いものを基準にすることによって、戦争や紛争、様々な格差から生じる問題を生じさせてきてしまったとも言えるのではないか。

こうした歪みはどれも盲目的に信じ込まされた社会的幸福の強要から生じているし、さらに人間中心社会は、幸福と経済を結び付けることによって、支配する側とされる側に分けられてしまっているのが現実なのだ。

セロトニンが安心感やメンタル面の安定に寄与することが明らかになり、セロトニンの分泌量が増えると、癒やされる感覚や幸福感を得られる一方、逆にセロトニンが低下すると攻撃性が高まったり、不安や鬱、パニック障害などの精神症状を引き起こしたりするという研究結果があるのだそうだ。

それなのに、「人間にとって幸福とは何か」についての本質的な議論はおざなりにしたまま、社会的幸福という幻想をひたすら信じ込まされる社会。それが私達が生きる人間社会なのかもしれない…。

昨年中は、愛犬、妻の実母、自分の実母が相次いで亡くなるという状況の中で、正直なことを言えば、幸せな気分になれることは少なかったし、意欲や集中力は低下していたし、何事に対してもポジティブであったとは言い難かったと思う…。

であったとしても、ただ時が過ぎるのを待つばかりでは返って精神的に良くないであろうことは容易に想像出来た。

そうした中、予定されたまま開催会期の延期を繰り返していた新作の作品展を開催したことは、自分が想像していた以上につくることについての意味を感じることが出来たと思っている。

たとえ人間が社会の中でしか生きられないのだとしても、自分は「つくること」によってのみ、ようやくこの社会をかろうじて実感できるものの、そこで自分が感じる社会が示す幸福と自分が思う幸福との間には確実にズレが生じていると感じることからすれば、それはどういったズレとして感じているのかについてを、自分がつくることをつうじて、この社会に生きる人々に感じて欲しいと思っている。

とは言え、自分が感じる社会はあくまでも自分ひとりが感じているに過ぎない姿であって、本来、社会がどうあるべきかは一人ひとりが考えるべきこと。

そもそもこの人間社会に正解など無いはずだけれど、だからこそ、一人ひとりが感じ、考えることの大切さに気付いたその先にこそ、私たちが向かうべき未来の姿は薄っすらと見えてくるような気がする。

昨年の4月に癌の影響によって先住犬が死んでしまったことによって、大きな悲しみ、罪悪感、後悔、そしてまた命の現実に対する恐怖も感じていた。

あれから色々とあって、娘や友人に意見を聞きながら、妻と私は色々と考えた末に、先月、多頭飼育崩壊の現場から保護された一匹の犬を我が家に迎え入れることにした。

しかし、今思えば、その後の妻の実母の死。自分の実母の死。そうした死をこの世の現実として、意外にもすんなりと受け入れることが出来た気もするのは、もしかすると愛犬の死が先にあったからなのかもしれない…。

人間のおよそ5倍の速度でこの世での一生を生きる犬。

犬が人間と生きる道を選択した理由は様々あれど、犬はこの世の命の現実、はかなさと無常さを映す鏡…

人間中心によって築かれたこの社会で彼らが人間と共に暮らし続けてゆくために必要なこととは何か。

彼らから見える社会について想像してみる。

そんな社会が人間にとってもきっと幸福な社会なのではないかと思ったりもする年のはじめ。

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