「共感と共鳴 Empathy and Resonance」

昨年に続き、今秋の10月に個展を開催することにした。

Artというフォーマットに照らし合わせれば、昨年の展覧会が凡そ4半世紀振りだっことを思えば大きな変化とも言えるけれど、理由として一つ言えるとすれば、何らかの波動を感じるから。

前回の展覧会の最中から考えていたことでもあるのだけれど、自分には展覧会が自己表現の場であるとか、自分が出した何らかの答えを発表する…といった感覚は極めて薄い。

それよりも、いまこうしている最中も働き続けている心臓や脳…分裂し続ける細胞といった身体と意思や心とが一致している感覚を得るために必要なこと…自分はずっとそれについて考えている。それは、この社会が向かう方向性は自分の求めとは逆のベクトルへ、心身が乖離することを前提とした社会へと急速に変化していると感じているから。

それはまた、自分という、一つの単位の中でも起こり得ることであって、作品をつくること、展覧会とはそれを少しでも食い止めるため。そう言った方が適当なのかもしれない。

自分のこうした意識を、心と身体についての問題意識と捉えれば、それは哲学にとっての伝統的な問題と同じとも言えもするけれど、しかし哲学はあくまでも存在と認識についての概念であって、思考するための重要な手掛かりにはなり得るものの、「心と身体の乖離」という現実問題を食い止める直接的な手立てにはならないし、世界的な感染症パンデミックや深刻化する国家間の争いによって増大する人々の不安に対しては、残念ながら無力であると言わざるを得ない。

とは言え、自分の本当の気持ちをを公言できない社会的な雰囲気や自分の勝手によって人に迷惑をかけられないという意識。そうした思考の根底にあるものとは何であるのかについて深く考えることによって、不安は他者や外部からの圧力によって生じるのではなく、すべては私たち一人ひとりの意識から生じているという感覚を得ることが出来るようになる…。その意味からすれば、哲学とは自分の意識をどの方向に向けるのかに役立つ。

フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは、「監獄の誕生―監視と処罰」の中で、19世紀前半に功利主義を唱えたジェレミ・ベンサムが考案した監獄の仕組みである、中央の監視塔から周囲の監房を見渡すことができる「パノプティコン」(一望監視施設)という監獄施設を取り上げている。

「常に監視されている」という意識を持った囚人は、自らを監視するという視点を自らの心に宿し、結果的に権力への自発的な服従へと導かれていく…。

フーコーが注目した権力と個人の関係を示すこの例えを「いま」に重ね合わせれば、国家という権力はその強権的な力によって人々を監視したり従わせるのではなく、人々が互いに監視し合うという「相互監視」を権力維持にとっての有効な手立てとして選択する。

しかし、人々の中に芽生える自縄自縛の意識はやがて、相互監視型社会を飛び越え、全体主義国家の成立へと変化する危険を孕むと同時に、そこでは「自由」こそが最も監視されるべき対象となり、人々の自発性は失われてゆく…と思うのは自分のネガティブな想像傾向ゆえ…なのだろうか。

「心身の乖離」が現代社会に於いて極めて深刻な問題であることは、既に多くの人々が気付きはじめてはいるけれど、そうした気付きをこの問題の解決へと繋げるにはどうすれば良いだろうか。

生物学者、ルパート・シェルドレイクが1971年に発表した形態形成場仮説は、科学の世界では権威ある科学雑誌,『ネイチャー』から「焚書に値する本」と攻撃されたそうだが、それから50年を経て…感染症パンデミックが社会全体を揺るがすいま。

自分はその仮説の中に、科学では解明しえないこの世を生きているという現実を強く感じている。

あらゆるシステムの形態…行動や思考も、過去に存在した同じような形態の影響を受け、過去と同じような形態を受け継ぐ。離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する…といった、あらゆる形態には時間や空間を超えた「共鳴」が起こるとするという形態形成場仮説。

現代の科学の世界では、その片隅で論じることさえ許されない空想なのかもしれないけれど、そもそも「美」もまた現代科学からすれば同じこと。

自分はそこには「心身の乖離」に対する何らかの可能性があると信じているし、現代社会が向かう方向性に対する違和感と現代科学に対して真っ向から異議を唱えるこの仮説に対して不思議なエンパシーを感じずにはいられない。

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