見て見ぬふり…だとか、知らぬ素振り…だとか、仕方ない…だとか

…厳格なシビリアンコントロール(文民統制)の下で運用される実力組織の在り方を示す…

という反吐が出そうな国家幻想から発せられるこの言葉によって、一部の人々に負担を押し付け、この世の生命が蔑ろにされ続け、それを見て見ぬふりするこの国に生きている自分。

遠く、ミャンマーでいま起こっているこの状況に対して、何も出来ない…と思ってしまうことが既に、そうした国家幻想に慣らされてしまっているということであって、結果そうした意識が国家幻想をさらに強力に支えているということを忘れてはならない。

国家幻想とは国家という本当は何も無いものをあると信じ込んでしまう心理によって肥大する、その存在の絶対性が全てに於いて優先されると考える思考性。それはある種の洗脳された状態に近く、そこに形づくられる姿は宗教のそれに限りなく似ている。

国や郷土を愛する気持ちを抱くことは間違いではない。しかしいつしか、私達は国を愛せなくなってしまっている…それは何故なのか。

ミャンマーのいまはそのことについて語っているのだけれど、そこからそのことを読み解く力をも国家幻想は奪い取ろうとしているのだ。

SNSをつうじて発せられるミャンマーのいまを知る度に、沖縄のいまを、福島のいまについて思う。

3人、あごひげ、室内の画像のようです

池谷 薫2022年7月26日  · いまミャンマーでは多くの若者たちが武器を手に国軍と戦っている。その若者たちに武器を持つなと言えない自分がいる。国軍の蛮行はもはや人間の仕業ではない。生きながらにして人を焼く。猛スピードの車で後ろから轢き殺す。拷問のすえ頭部に銃弾を撃ち込む… 仲間たちの無残な死を前にして、ある者は大学をやめて少数民族の武装勢力に加わり、ある者は看護師の仕事を投げうってゲリラ兵としての訓練に励む。まだ二十歳そこそこの彼らが、次の世代のために戦い抜く、と悲壮な決意を口にする。国際社会は国軍の暴力を非難するだけで、やつらの暴力を止める具体的な措置は何も講じない。若者たちは粗末なライフル銃を手に重火器を備えた国軍に立ち向かう。ウクライナには最新式の兵器が大量に供与されているというのに… 日本政府にいたっては、この期に及んでも国軍の士官候補生を留学生として受け入れている。彼らは自衛隊で戦闘や武器使用方法の訓練まで施されている。岸防衛大臣は言う。「厳格なシビリアンコントロール(文民統制)の下で運用される実力組織の在り方をしっかり示していく」と。ふざけたことを言うな。国軍が人道に対する罪を犯しているまさにその時に、僕らの国はその鬼畜の軍隊の虐殺に加担する軍事訓練を行っているのだ。ああ、ミャンマーの若者たちに武器を持つなと言えない自分がいる。

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