…厳格なシビリアンコントロール(文民統制)の下で運用される実力組織の在り方を示す…
という反吐が出そうな国家幻想から発せられるこの言葉によって、一部の人々に負担を押し付け、この世の生命が蔑ろにされ続け、それを見て見ぬふりするこの国に生きている自分。
遠く、ミャンマーでいま起こっているこの状況に対して、何も出来ない…と思ってしまうことが既に、そうした国家幻想に慣らされてしまっているということであって、結果そうした意識が国家幻想をさらに強力に支えているということを忘れてはならない。
国家幻想とは国家という本当は何も無いものをあると信じ込んでしまう心理によって肥大する、その存在の絶対性が全てに於いて優先されると考える思考性。それはある種の洗脳された状態に近く、そこに形づくられる姿は宗教のそれに限りなく似ている。
国や郷土を愛する気持ちを抱くことは間違いではない。しかしいつしか、私達は国を愛せなくなってしまっている…それは何故なのか。
ミャンマーのいまはそのことについて語っているのだけれど、そこからそのことを読み解く力をも国家幻想は奪い取ろうとしているのだ。
SNSをつうじて発せられるミャンマーのいまを知る度に、沖縄のいまを、福島のいまについて思う。
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