昨年開催した個展を、前田せつ子さんが撮影編集してくれた動画を観ながら、あらためて、自分にとってのArtとは何か、そして、Designとは何か とこの世との関係性について考えた。
自分とってSNSはズボラな自分にとっての日記のようなものなので、この投稿も自分のいまの思考の記録にすぎないけれど、このことについて出来ることならもっと多くの人と話してみたいとも思っている。
Designとは現状を少しでも望ましいものに変えようとするための一連の行為…プロセスであり、その本質は「関係の構築」にある。
関係の構築はまたArtの成立にとっても同じく重要で、Artにとってのそれは「いま・ここ」と自分との関係を出発点として、そこからさらに自らの意識の内側、深層への方向に向かって行われる一連の行為、プロセスによって構築されるもの。
だからと言って社会との関係を必要としないということではけっしてなく、この世の全体と自分との関係をつうじて自らの感性と思考力が育くまれる。
これに対してDesignの本質である関係の構築は、Artと同じく「いま・ここ」と自分との関係を出発点とはするもののArtとは逆の方向性に向かいながら関係を構築する。
このことからして、『いま・ここ』を少しでも望ましいものに変えようとするためには、ArtとDesignが一対のものとして機能することが重要であると同時に、ArtにしてもDesignにしてもその一連の行為とプロセスこそがことさら重要
だと思う。
…と、ようするに、ArtとDesignとの違いなんてどうでも良いことであって、…と言うよりもむしろ、その本質に於いては、『いま・ここ』の在り方こそが重要であるということ。
Artは難しいと思われがちであると同時に巷に使い捨てのデザインが溢れてしまっているのも、DesignとArtが切り離されてしまっているからではないのか。
自分は美術家を名のってはいるものの、それは、Artと美術とは同じではなく、自分にとっての感性と思考力は、「いま・ここ」である風土と歴史、そしてArtではなくて美術によって育まれていると思っているからで、
美術家は自分にとっての生業だとか職業ということではなく、むしろ、職業で言えば自分はデザイナーであるのかもしれない。
まぁ…そもそも職業なんて実に曖昧な定義にすぎないし、自分は美術やArtによって育んだ思考によって、『いま・ここ』を少しでも望ましいものに変えようと思ってデザインしこの世を生きているだけのこと。
この世での一生を誰のためでもなく自分のために生きるためには、自分で感じて、自分が考えるための感性と思考を育むしかないわけで、それはいわゆるコンピューターで言うところのオペレイティングシステム(OS)のようなもの。
自分だけのオリジナルのOSでこの世を感じ考えていたい。
…で、そもそも『思考』とは何かということ。
それは自分が考えるArtにとっての最大の必要性であり重要性。
自分にとっての興味も同様にそこにあるからこそ美術家でありたいと思っている。
その意味からすれば、Art作品はこのプロセス上に表出した突起物のようなものであって、その本質は自らの感性と思考の育みにあることを忘れてはならないこと。
この世に生きるすべての人にとってArtが正しく機能することよって自立した感性と思考力が育まれ、それによってこの世の現状を少しでも望ましいものに変化させることが出来るはずだ。
しかしいま、残念ながらArtや美術そしてデザインは単に見えがかりとして理解されがちで、感性や思考の育みにとっての必要性や関係の構築の必要性として機能しているとは言えないと思う…。
この原因は複雑であるけれど、少なくともこれもまた現在の資本主義経済システムの脆弱性であることは間違いない。
とは言え、少なくとも美術・Artが人々の自立した感性と思考の源泉に大きく関係していることは明らかであることからすれば、いま必要なことは。美術やArt、Design一部に専有されてしまっている状態から、すべての人々が使える状態へと解放しなければならないと思っている。
小池雅久展 “Muddy River 泥の河”@Flat File Slash Warehouse Gallery
撮影・編集 : 前田せつ子
小池雅久展 “Muddy River 泥の河”@Flat File Slash Warehouse Gallery 2022年10月29日
コメントを残す