「再生可能に隠れた、不都合な真実」

自分にとっての大切な友人であり、多くの人に愛される、大切な場づくりをしている「小諸、読書の森」さんからの、「森の木が切り倒されはじめている」…という投稿を読みながら、しまった!…と思う自分があった。

「再生可能に隠れた、不都合な真実」

このところ…というか、コロナ禍によって社会が大きく混乱していた間、再生可能エネルギーあるいは、自然エネルギーというワードから少々遠ざかってしまっていた。

その間に、再生可能エネルギー発電推進の動きは留まるどころか、さらに全国各地に広がり続けていて、再生可能エネルギーに未だ群がる動きがあるということを忘れていたわけではないけれど、残念ながらそこから少し意識が遠退いてしまっていた。

最初に…

自分は、国策でもある再生可能エネルギー発電推進の動きには明確な反対の意思を持っていると同時に、自然エネルギーという言葉には大きな嘘があると思っている。

再生可能エネルギーとは言うものの、そのエネルギーとは何を再生させるのか?

その発電方法は、効率的に繰り返し行われる仕組みとは言い難いし、何より自然の何も再生させはしない…。

それは先端工業技術によって生産される電化製品の利用であるということを私達誰もが忘れるべきではないと思う…。

自分はこれについての専門家では無いし、根拠の無い、自分勝手な感情論だと思われる人もいるかもしれない。

でも、そう思われたとしても、そうでもして語らなければ、こうした事業が国という権力に守られた推進事業である以上、その背景にある不都合な真実には誰も気付けないのだ。

誰であろうと、自分の目で一度見れば気付くはず。

多様な生きもの達が住まう山の木々があっと言う間に切り尽くされた挙句、その山肌いっぱいに並べられた太陽光パネルをひと目見れば、その異様さを感じるはず…もはやその光景は自然から遠く離れたものであるということを。

それでも、地球環境を守るためだからしょうがない…と思う人もいるかもしれないけれど、だったら一度、電気と酸素のどちらが私達が生きるために必要なのかを考えてみて欲しい。

山の木々は私達が生きるために必要な酸素をつくってくれている。

この発電事業推進の胡散臭さの本質は、多数の問題を抱えていながら、自然や再生可能という言葉を巧みに用いることによって、あたかもこれからの未来のエネルギーであるというイメージをもたらしていること。

あれほどの原発事故を引き起こした国の責任を曖昧にしたまま、こともあろうに、その原発に変わる代替えエネルギーが再生可能エネルギーであるというイメージがつくられてゆく…。

そのクリーンなエネルギーをつくるために、大量の太陽光パネルを敷き詰めるために必要な土地を確保するために、過疎化、高齢化する、年間の降水量が最も少ない山の土地の木が切り倒される現実。

それはかつて、過疎化、高齢化する海辺の土地に、原子力という未来のエネルギーを用いた発電所をつくりませんか? と持ちかけたのと瓜ふたつではないのか…。

山が、森が、木が、私達にもたらしてくれるのは景観ばかりではない。

そこで育まれる生命そのものが、私達にとって命綱そのものであって、それが切れてしまったら私達は皆、生きていられなくなってしまうのだ。

どうか、ほんの少しでも考えてみて貰えませんか。

どうかこれ以上誰にも、生命の切り売りをさせないで欲しいと思っています。

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