農民芸術

美術は、「美」があることによって自分と自分以外との間に築かれる関係性を考える上でとても重要な方法であると思っています。
それは言い換えると…美術とは私にとって重要であって、私以外の人々にとって重要であるかどうか私にはわからない…ということでもあり、したがって美術の重要性を人に説いたり、美術を知らしめたりすることは、自分の為に於いては必要としていない…ということです。

とはいえ、美術家としてこの社会を生きる以上、美術についての質問や美術家としての見解を求められることは多々あるわけで、そういった質問や見解もまた美術家としてこの世を生きる役割だとも思っています。
…なにより、美術家とは美術作家である以上、作品が見たい…と要求されるのは当然であって、それがどんな作品であれ、作品を見せること無しでは、いくら美術家でありたいと願ってはいても、美術家として認知されないのも仕方のないことかもしれません。

ようするに美術家とは、美術作品を公表することによって社会との関係性を築く生き方であると言える…。

それが美術作品であるかどうかという判断や評価はあくまでも結果にすぎません。
美術作品であるかどうかの判断は、美術家が下すことでは無く、ましてや美術に対する評価ほど曖昧でいい加減なものは無い…と私は思っています。
そんな美術作品を評価し価値を付けなくてはならない理由があること…。そうした判断や評価によってこの社会が成立してしまっているということについて、私は極めて大きな疑問があります。

ある美術家が「美」をどのように捉え、「美」とどのように関わり、どのような関係性が築かれたのか…そうした結果を作品として表す。作品をどのように展示するのか…観客と作品をどのように出会ってもらうのか。…ここまでが美術家としての役割です。
そして観客は、美術家が築いた関係性の過程と結果である美術作品と出会うことによって、自らが築いている関係性について考えるという役割を担う…。

私はこの美術家と観客の相互のやりとり…ここに築かれるであろう目には見えない関係性を築く道のりこそが、『美術』なのではないかと思っています。

いくら優れた…と評価される美術家がいたとしても、社会そのものでもある観客自らが築いている関係性と繋がること無しの美術はあり得ないのではないか…。
高価な値段で取引される美術作品とは、その周辺の関係性に於いて必要とされるものであって、必ずしもそれが私たちが生きるこの社会全体が求めているとは限らないことです。

そういった意味からすれば、この世の中には、素晴らしい美術はたくさんある。美術が都会のど真ん中に…、巨額を投じてつくられた美術館の中にだけあるわけではないし、それは必ずしも美術家と言われる人だけがつくっているとも限りません。
そうした判断の基準は、あくまでも私たち一人ひとりの心の内にあるのだと私は思います。

農民であり作家である、
宮沢賢治による、『農民芸術概論綱要』にこう書かれていました。

序論

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

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