「商業主義 commercialism」

オルタナ…オルタネイティブ(alternative)には、二者択一という意味と既存・主流のものに代わるという意味がある。
オルタナティブと聞いて自分が先ず思い起こすのはalternative rock のそれだけれど、あれから数十年、alternativeがrock のジャンルとして完全に取り込まれてしまったいまとなっては、もはやそこには主流に代わるものという意味合いは殆ど無くなってしまっている。

そもそもオルタナティブという概念が注目され始めたのは1960年代から1970年代の頃のことで、オルタナティブテクノロジー、オルタナティブトレード、オルタナティブメディシン…などの新概念が相次いで登場してきたその背景には、当時の世界をすべて飲み込んでしまうかの勢いを持って拡大、膨張し続ける商業主義があった。
あらゆる価値よりも営利(利益額)を最優先させるその考え方によって、社会は急速な経済成長を遂げるいっぽう、公害問題や不当労働問題、薬害問題…など、社会のあちこちに様々な歪を生じさせると同時に、世界各地では紛争や戦争が頻発し、世界が東側と西側とに分裂・対立する冷戦構造の中に飲み込まれてゆく最中だった。
Alternativeは、そうした社会構造に対しての代替策としての様々であり、それまで無かった新しく生み出される概念ということではなく、既存・主流となる概念、社会があるからこそ、そこに生まれるカウンター的な概念であるということ。
ようするにAlternativeにとって最も重要なことは、「背景」と「関係性」なのだ。
そうやって当時の社会状況といま現在の状況とを比較してみれば、同じとは言えないにしろ、あまりにも多くが酷似している。
そう思うと、こうした社会をもたらす背景には間違いなくあの時代と変わらない…、いや、むしろあの頃よりもさらに進化・成長した商業主義が横たわっていることを私たち誰もが忘れてはならないと思っている。
  
自分の生き方にとって重要なArtや美術にもalternative Art的なものはあるけれど、そもそもArtは常にalternative的な要素が強く、Artにとっての既存や主流を捉えることの方が難しい…。
中には、アウトサイダーアートとかアールブリュットと呼ばれるアートもあるけれど、精神障害者や民族的な芸術など…それら西洋的な美術教育を受けていないところから生まれるものにArt性を見出すこに対しては異議ないものの、いままで価値が無かったそこにArt的価値を見出すといったことが…あたかも新しいArtが出現したかに思わせる典型的な商業主義的手法である観は否めないし、そもそもいい加減に「西洋的な美術教育を受けたかどうか…」なんてことに特別な価値など無い ということを認めることの方が間違いなく重要なことだ。
 
とは言え、自分は明らかに西洋的な美術教育を受けた者であって、だからこそいま自分がこう考えるようになったことからすれば、自分の選択が無駄だったとは思っていない。
ようするにそれは道筋の選択の違いなだけであって、どの道を選択したとしてもArtの本質に辿り着くことは出来るということではあるけれど、この社会に於いてその道筋には常に商業主義が横たわっていて、誰であれそこに足が絡まる危険性を孕んでいるということ。
そことどう付き合うべきかを考えることを忘れてはならないと思っている。
 
自分と妻とで企画運営するGallery MAZEKOZE は、言わばAlternative Art Gallery の類だと思う。
主流・既存のGalleryとは何かという点については曖昧な解釈しかないけれど、Gallery運営は勿論のこと、自分たちがつくる「場」では少なくとも、商業主義に絡めとられないようにすることは常に意識してきた。
もちろんのこと、商業も経済も否定はしない…それどころか、人間がこの世を生きる上で商業、そして経済は大切…。
問題はそれが膨張・拡大し、主義となってしまった時、人々がそれに絡めとられれてしまうかもしれないという危険性が常に潜んでいるということ。
 
先週で終了したGallery MAZEKOZEでの企画展 「山本糾 展」では、今後の自分たちが歩むべき道筋をより鮮明に感じることができた気がしている。
妻も自分も所詮、美術馬鹿Art馬鹿であることだけは間違いないということも…。
 
 
※写真は、5月5日に開催した、アーティストトークの山本さんと自分。
美術家・北澤一伯さんから感想と共に送って頂きました。

 

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