「私の国」

自分が私の国…と言った場合、それは大まかに日本という国を示すことになるのだけれど、そこには国としての領土だとか権利だとかいう意識は薄く、国として成立し得る条件を伴う、政府の組織としての「国家」という感覚はない。

とは言え、自分に限ったことで無く、一民衆が抱く、私の国 という感覚に対して国家という組織感覚が深く入り込もうとするところに「権力」という目には見えない力の働きを捉えることが出来る。

この世にあって目には見えない存在 を如何に捉えるかは、自分にとっての大きな関心事なのだが、そうした存在がこの世に満ち満ちている…というよりもむしろ、この世という全体は、私たちの目には見えない存在があるからこそ繋がりあって目に見えるものとなり、そこに形づくられてきたものの一つが 私の国 といった意識でもあり、そのもとには日本の伝統的な民衆の思想があると自分は思っている。

そうした中で、自分が権力を強く意識せざるを得ないのは、そうした伝統的な民衆の思想に対して国家が権力を用いて深く介入し、その思想を国家の都合によって操作しようとするから。

とは言え、本質的な観点からすれば、伝統的な民衆の思想が正しく国家が掲げる思想が誤りということではないはずだけれど、でもしかし、民衆の思想というものについて考えてみれば、その育みは誰か一人の決定を民衆が思想として取り入れたということではなく、この世の全体との関わりの中、長い時間の中で様々に変化しつつ育まれてきたものだ。

そういった民衆が育んできた思想に対して、国家という概念がもたらす様々な都合によって、国家は権力を用いて民衆が育む思想を極々短時間のうちに変えてしまおうとする…。

そうやって、そこにつくられる国を、私たちの国 と言うことが出来るのだろうか。

単純に言って自分は権力が嫌い。

出来ることなら、そんなものに関わりたくはない。

でもそうも言っていられないのだとも思う。

そいつがこの世の自由を表象する自然の在り方を阻害するから。

この国の民衆が育んできたこの世の自然に対する意識・捉え方と自分が大切にしたいと思っている自由は極めて大きく関係しているから。

この関係が断ち切られないようにすることを考える時、私の国と国家がつくろうとする国 との間にあるズレに気付いてしまったから。

かつて中国から日本へともたらされた仏教ではあるけれど、元々はインドで生まれた思想が長い年月をかけ、中国から日本へと伝わり、その思想がこの国に元々あった宗教観と融合しつつ土着化していった。

こうした土着化した思想が、自分が言う 私の国 という感覚にも大きく影響しているであろうし、例えば…、「山川草木悉皆成仏」(さんせんそうぼくしっかいじょうぶつ)という言葉があって、これはもともと「天台本覚思想」からだと言う人もいるけれど、こうした仏教という思想にしても、後に生きた人々がこの世との関係の中で様々にここで言う意味を理解し、育まれ、そうしていまに伝った言葉なのだと思う。

このところずっと、市街地から30分程度山間に入ったところにある土蔵の改修作業をしていて、これが想像していたよりもずっと手間の掛かる作業の連続になってしまってはいて大変なんだけれど…。とは言え、おそらく築100年は経つのかな? いまとなっては想像も出来ない程の手間が掛かったであろう、先人たちの仕事の上に自分のつたない仕事を重ね合わせるという作業でもあって、施主との関係も含め、日々様々な問題には出くわしはするけれど、でもそこに、過去と現在という時間の経過、ものに対する認識の違い、自然との関わり方の変化…そういったことを数多く感じることが出来るのは確かなこと。

新築の作業をしていたら、間違いなく気付かない、考えないことがこの作業にはあるのだと思う。

今日は雨。

自然と自由…厄介なものに惹かれてしまったな…と思う。

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