「淀み」

娘:「“生きるとか死ぬこと”ってタイトルがちょっとね~…」
俺:「なんだよ。うるさいなぁ!いいんだよ、これで」
娘:「猫がいる…、一歩前進…、もう一歩前進…、…って方が、それで?…ってことになるんじゃない?…だってその先が気になるでしょ。」

確かに娘の言うとおりだと思う。
小学校4年生の子どもとはいえ、コミュニケーションについてのあれこれを考えるまでに成長している娘の姿に驚くとともに、いまという時代、此処という場所を感じる。

Facebookがインターネット上に無防備に公開されたコミュニケーションツールであることを考えれば、ここでのコミュニケーションはあえてその程度に留めるのが懸命なのかもしれない。
…だけど正直なところ、「それがどうした」と思ってしまう私。
そんなこと、自分は知りたくも無いし、ましてや、何処の誰かもわからない奴のつぶやきを信じるほど、自分はお人好しでも無い…。
そんなこんなで既にTwitterは止めてしまった…。
このぶんでゆくと、Facebookにも後どれだけ書き続けられるかはわからない。

「そんなこと言ってるから嫌われるんじゃない?」…と誰かに言われたこともある。
確かにそうかもしれない。
友だちは少ない…。
これを、おじさん化現象と呼ぶべきか?

最近娘の仲間内では、理解不能な考え方をする人を指して「変人!」と呼ぶらしい。
彼女達がそう言いたくなる理由もわからないこともない…。
娘が友だちから、「茉莉花ちゃんのお父さんて変人だよね」って言われたらそりゃぁショックだろうなぁ…。
…でもごめんな茉莉花、お父さんは変人なんだよ…きっと。

…ということで、最近はBlogよりももっぱらfacebookを多用している私。
世界シェアがどうしたこうした…と聞くと、じゃぁ使わない…って思いがちな天邪鬼な自分だけれど、しばらくは、世界を圧巻するグローバリズムとは何かを直接肌で感じてみたいと思って使い始めた。

私たちが暮らしているこのあたりは長野市とは言え、都市の真っ只中。ここ最近の善光寺門前町は、常に変化している。
こういった変化とfacebookやTwitterが大きく関係していることはあきらかだと思う…。とはいえ、そうした情報ツールを門前町の人々が皆使っているとは限らない。

私がいま最も大切にしたいと思っている山村や森での暮らし。
そこでの人の繋がりにしても、facebookやTwitterは大いに関係がある。
facebookが如何にグローバリズム社会の最前線によって生みだされたしくみであったとしても、その逆のベクトルに位置すると思われがちな山暮らしというローカリズムがそれとの関係性を絶つ必要はない。
それどころか、山村での暮らしに於いては、今後益々そうしたグローバルツールを如何に使いこなしていゆくかが重要になってくるのだと私は思っている。

例えば、一般的に村社会と呼ばれるようなローカルなコミュニティーでは、低い生産性と自給的な経済であったとしても、コミュニティーが必要とする役割分担を維持存続させ続ける為に、コミュニティー内部での平等性を尊重し、それによって仲間としての意識が高くなる側面がある一方、逆にコミュニティーの外部に対しては、低い生産性と自給的経済性を脅かす脅威を防ぐため、あるいはコミュニティーとしての自治権を守るという意味での封鎖性が求められる傾向がある。
そうした閉塞したイメージは、結果として山村の過疎高齢化を招いた一つの要因とも言えるけれど、facebookをはじめとするインターネットの発展で、山村は大きく様変わりしはじめている。

先週末、大町市八坂で行った“ロケットストーブWS”には、山村に移住した…あるいは移住しようと考えている人々が大勢参加してくれた。
そうした人々が全員とは言わないまでも、facebookを利用していることからしても、実は社会の変化は都市から始まっているのでは無く、都市から遠く離れた山村から始まりつつあると私は感じている。

いまこの瞬間の出来事や情報を次々に、一方的にタイムラインという時の流れの中に載せることにかけて極めて優れたこの流れ中に、どうやって淀みをつくるか…。あるいは、吹き溜まりのような「時」をつくれるかどうか…。
それが私がFacebookを使う上での目下最大の興味でもある。

“「淀み」” への1件のコメント

  1. 久田桂子のアバター
    久田桂子

    FBとは違うものが伝わって来ました。おもしろいです。

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