「言語化」

12月に入って日の出の時間も随分と遅くなるに連れて、犬に起こされる時間も随分と遅くなった。

それはそれで寝ていられる時間が長くなるということなので有難いことではあるのだけれど、この元保護犬が我が家に来て以来、ほぼ完ぺきな朝型になってしまった自分にとっては、起床してから仕事に出掛ける迄の時間が減ってしまうということでもあって、犬との散歩時間も、本を読む時間も文字を書く時間も大幅に減ってしまっている。

自分にとって思考の言語化は誰かに伝えるためという目的性は低い。

それよりも、自分がいま何をどう捉え感じているか…、自分の意識の周辺を俯瞰的に、客観的に捉えるため。

(それなら何でSNSなんかに投稿するんだよ…と思われるだろうけれど…。それについてはまたの機会に)

特に、忙しさに追われいるとか考えなければならないことが山積している時には意識そのものが複雑さを増すものだけれど、そういった状態に比例して自分の中の言語化衝動が増すようだ。

そうした衝動が生命が持ち得る本能なのかどうかは解らないけれど、命の危機的状況とまでは言えなくとも、自分という美術家という特異体質とでも言えば良いのか、いずれにせよ自分にとって意識と思考との関係はとても興味深い。

この世を全体として感じるためにはどうしたら良いのか。

自分はある時からそれについて考えるには、この世の全体性を「美」に置き換えてみる必要性があると考えるようになる同時に、自分がいる場所を変えてみる必要をとても強く感じてもいた。

そんな時にたまたまはじめたのがRock Climbing。それはまさに自分が求めていた全体を感じるために最適な場所であったと思う。

自然の岩場にあちこち出掛け、四六時中、岩を登ることばかり考えていた。

降り返れば、そうしたRock Climbingをしながら感じていたあれこれが、いまも心の中にしっかりと残っていて、岩場に行くことが無くなって随分と年月は経ってしまっているけれど、あの頃、なぜあれほどに岩にしがみつくことに夢中になっていたのかについて考えれば、そこには明らかに「美」が存在していたからだと思う。

この世の全体と美との関係性について考えること。それが自分が美術家を名のる最も大きな理由でもあるのだけれど、一般的には多くの人が持っているであろうイメージ…美術家とは美術作品をつくる人というイメージは仕方ないことだと思う。

この社会では生き方は職業とは認識されないし、職業を持つことが社会性であるかの如く思われてはいるこの世の中では、芸術家は社会的に認知されにくい…。

そういう自分も、美術家が職業だとは思っていないし、職業である必要性もないとは思うけれど、でもしかし、この社会にとって本当に必要なのは、人それぞれの生き方が尊重されることだと思う。 

自分と言う美術家にとって美術作品をつくることは然程重要なことではなく、それよりもむしろ「美とは何か」という問いを思考の中心に置くことによってこの世を理解し感じたい。

勿論、芸術作品やArtの中にはそういった問いを携えていることも゙多々あるわけで、そうした作品や作家をつうじて気付くことは多いし、自分自身が美術作家として作品をつくることももちろんあり得はする。

「美とは何か」についてを、芸術作品や芸術的な行動から感じ取ろうとすることはけっして間違いではないし、そのための手立てとして有効だとは思っているけれど、効率と経済が優先される現代社会に於いては、芸術もまたこうした社会的役割を担されがちであるということからすれば、芸術が必ずしも「美」を内在させているとは限らない。

そもそも美術とArtの間には大きな隔たりがある。美はArtではないし、Artは美でもない…。

世界の混乱もそこと大きく関係しているのではないか。

この隔たりを乗り越えるためにも、「美とは何か」 という意識を常に思考の中心に持ち続ける美術家でありたいと今日も思っている。

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