「独自性」

どうやら数日前にBS1で放送された、「市民が見た戦乱のガザ12月」を観てから心がざわついたまま、日付が1月1日になってもその状態に変わりないところに能登半島を震源とする地震まで発生してしまった。何とも心ざわつく一年の始まりだけれど自分にとっても世の中にとっても、この先は心穏やかな方向へと向かって欲しいと心から願っている。

考えてみると、自分が苦手な年末の慌ただしさ、忙しなさというのは、結局のところ、たった1日日付が変わることへの絶大な期待感がそうさせているような気がする。それがこの国の文化につうじているという捉え方も出来なくはないものの、もはやこの現代社会に於いては、そうした期待感が文化を育んでいるとは自分には思えないし、だとすればその期待感とはいったい何につうじるものなのだろうか…。

自分にとっては、そうした疑問が強くなるのがこの時期であって、そこに追い打ちを掛けたのがテレビ画面の中の戦乱のガザの様子であり、世間を覆う行き先が定かではない期待感であるような気がする。

大切な日を共に祝うという慣習、そこに育まれる文化は日本に限ったことではないし、それはそれとして大切なことだと思う。しかし、世界中の様々な情報が(正確で正しい情報であるかどうかは別として…)瞬時に飛び交う現代社会では文化の独自性を保ち難いのも当然。それにも増して、世界情勢の不安定さから生じる混乱や紛争、移民や難民の増加によって人は移動せざるを得なくなると同時に文化の独自性も少しずつ確実に変化している。

そうした変化によって変わってしまう文化を残念に思う気持ちも少なからずあるけれど、人の暮らし方が変われば文化も変わるのが当然、変化しない文化である方がよほど不自然なのだと思う。

そしてまた、自分の心のざわつかせるの理由もそこにあるのではないかと。

「そこ」と言うのは、変化することを良しとしない不自然さ…というか、そうした文化の性質をも巧みに利用しようとする力の存在と言った方が適切かもしれない。

自分に限らず、多くの人が文化は大切だと思っている。社会があって当然だと思うのと同じように、文化もまたあって当然であると。

しかし文化とは何かと問われるとそれに答えることは実に難しい…。

地域文化の独自性…食とか暮らし方など暮らしが育む文化をつうじて、普段気付き難い地域の特徴をはじめ様々な関係性によって地域が成立していることに気付くことは多い。あるいは先住民族の文化を知ることをつうじて、これからの未来を共に生きるために必要なことについて考えようとする気持ちが芽生えるのも文化の独自性から生じるものだとも言える。

しかし、そうしたいっぽう、文化と民族との関係は極めて強く結びついているがゆえに、文化と民族を一緒くたにしてしまうところに間違いが生じやすい…。というか、その性質が利用される隙があるのではないかと思うのだ。

別の言い方をすれば、国家や組織といった大きな単位に限らずとも、小さな村や集落といった単位であっても、文化の独自性はともすれば、強引にでも団結や同調を促す強力な手段になり得るし、そうした性質があるがゆえに結果的には文化が人を分断する要因として利用されやすいということでもある。

現在のガザの戦乱の状況の悲惨さはあらためて言うまでもないが、ガザの状況をつうじて自分が思うことは、民族の優位性の応酬が文化の独自性を完全に否定しててしまっているといった状況下では、もはや美は機能しなくなってしまっているということ。それどころか、この社会にとって美は既に幻想なのか…。Artや芸術はもはや経済の術としてしか存在し得ないのではないか…と思う。

自分は、民族にも文化にも、どんな理由があるにせよ、そこに対して優位性を持ち込むことは出来ないと思っているし、だからこそ、というか、少なくともArtや芸術に対して優劣を論じることもまた不可能だと思っている。

しかし人間社会はある時から、そこに対して優劣を持ち込むこと、芸術を崇拝する仕組みをつく出し、権力はそれを利用し、優秀な人間がこの世の全体を支配するといった方法を見出してしまったのではないか…。

この社会の混乱と混沌について大袈裟に言うとすれば、すべてはここに端を発していると言っても言い過ぎではないと思っている。

Artや芸術といった概念がそうした方法としてつくられ利用されてきたものであるとは言え、だからこそArtや芸術がそこに気付くことによって本来の自然の姿へと誘えるのではないのだろうか…。

権力がArtが持つの独自性を利用し始めたのはフランス市民革命後しばらくしてから…、たかだか200年と少々前のことにすぎない。

極端な捉え方だと言われるかもしれないけれどこれは想像ではなく事実なのだ。

以来、Artは常に権力側に寄り添うことでしか成立し得なかったとも言えるのではないかと自分は考えているのだけれど、その当時の権力は既に別の位置に代わってしまってはいるものの、それは明治という時代を迎え西欧文化を輸入し急速に西洋化した日本も同じ。

Artや芸術が優劣あるもの…Artや芸術は難しくてよく解らないもの…というイメージもそこに理由があるだと思う…。

ならば…、現代社会を覆う混沌さ、分断や支配といった状況から私たち自身が解き放たれるためには、Artや芸術そのものが権力に寄り添うといった自縄自縛の状態を解き放ち、この世の全体を阻害しない自然の方向へと向かうべき時にあるのではないか…そのために自分は何をすべきなのか…。

そんなことを真剣に考えている年のはじまり。

画像上:「ラスコー洞窟の洞窟壁画」

紀元前2万年ごろ/フランス

画像下:ドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』1830

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