propaganda

「propaganda」

人々が支持しているということが自らの正当性であると主張する者にとって、支持を勝ち取り、維持し続けるために、個人や集団に影響を与え、その行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動の総称を「プロパガンダ」(propaganda)と呼んでいる。

昨日は、「雑誌・たぁくらたぁ」主催の、「電通と原発プロパガンダ」と題した本間龍さんの講演会があり、Gallery MAZEKOZの管理人はその講演会へ。そして自分は久しぶりのMZEKOZEでお留守番。

土曜・日曜の善光寺門前町の裏通りは、いつもにも増して人通りが殆どなく、講演会が終わって、本間さんやたぁくらたぁ関係者が訪れるまでの間、お客さんはたった一人だけだったけれど、MAZEKOZE来てくださったのは2回目だと言うその方は中学の美術の先生だそうで、近いけれど遠い?遠いけれど近い? とは言え、この社会に美術があって本当に良かった…という話しが出来てとても嬉しかった。

さて、冒頭に戻って…。

しかし、何故。その者たちは、人々が支持しているということが自らの正当性であると主張するのか。

そもそも、自らの正当性とは何か。

それについて考える時、そこへと誘う力の働きがあることに気付く。

その力の働きによって得られるものが「権力」であるとして、自分の最大の興味はその権力を欲する欲望が、なぜ人の中に生まれ出るのかにある。

それについて考える時、人以外の動物にもそうした欲望があるのだろうか?と思うし、植物はどうなのか?と思う。

この世の全体を司る生命の本質という観点からして、「権力」は人という生命にとって必要なものであるのだろうか…。

 「権力」と言ってしまうと、それは国家や政党、企業や宗教団体などの大きな集団が持つ大きな力だと思ってしまいがちだが、大きな集団が大勢を従わせる力と、それがたとえ、たった一人からであっても人を従わせようとして用いる力とは、その性質からして何ら変わりはないものだ。権力は既に社会の隅々まで深く浸透している。

 重要なことは、権力とは絶対的支配欲から生じる、自らの正当性を否が応でも強要することの出来る一方的な力であるということ。

その絶対的支配欲は人間の「欲」の中から生じ出るものであることからすれば、誰の中からでも生じる出る可能性があるということを私たち誰もが深く心に刻む必要があると思う。

 しかし、この社会において最も大きな権力でもある国家権力を得た集団が、その権力を用いて自らの正当性を主張し、支持を勝ち取るため、権力を維持し続けるために、その集団を支持していない人も含めた、個人や集団に影響を与え、その行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動が、「プロパガンダ」(propaganda)と呼ばれるものだ。

 国家権力がそれを用いる時、それは、情報による大衆操作・世論喚起と考えても間違いではないし、すべてが嘘であるとは言えないものの、事実が歪曲されている可能性は否定出来ない…

 こうしたプロパガンダは国際情報化社会においてはもはや避けきれない、必然的にあらわれるものであり、しかもその手法は、かつて第二次世界大戦下にあったプロパガンダのような、必ずしも押しつけがましいものではなく、芸能人をはじめ、有名人や意図したイメージに沿う人材を起用することによって大衆に拒絶され難い、潜在的意識に浸透しやすいキャッチコピーを用いるなどして、より戦略化され巧妙なものへと変化してきている。

 不安を煽るつもりはないけれど、もはやこの社会に於ける権力からの情報とは疑うべき対象となってしまっている…ということでもあり、現代社会に生きる我々人間にとって、世界は膨大な情報とプロパガンダによって縮小する方向に向いているとも言えそうだ。

 とは言え、それは逆に、情報は人と人とを分断する方向へと働きやすいということであり、情報に制御されない人間と人間の信頼関係を如何につくるかが今後増々重要となると同時に、あらゆる側面に於いて新たな人間関係構築の場と機会が求められているということではないか。

その意味からすれば、テクノロジーの著しい進歩は、人間という存在がこの世の全体とどう関係しているのか…その本質へと気付かせるきっかけにもなり得ているということなのかもしれない。

 いま・ここ にあるもの、を使って自分で作った薪ストーブから、薪の爆ぜる音と、時折漏れる煙の臭いを嗅ぎながら、よくもまぁ、こんなにも偏った本が集まってしまったものだ…と思いつつも、マゼコゼという場がようやく動き始める…そんな気がしている。

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