共同体はCommunityと同義として語られることが一般的だ。Communityとは、同じ地域に居住して利害を共にしつつ、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まりを示すとされている。このCommunityを日本語に翻訳すると共同体ということになるのではあるけれど、既に現代の日本においてコミュニティーは既に日本語となって久しく、いまさらCommunityだのコミュニティーだの共同体だのと疑問を持ち込んだからと言ってどうなるわけでもない…とは思うのだが…
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とはいえ、私は何もこの翻訳について文句があるわけではない。こうして書き出してしまったことに理由があるとすれば、共同体という日本語が私の頭の中を駆け巡ってしまったから…。共同体=Communityなんだろうかという疑問が私の思考を占拠してしまったから…。
私が共同体という言葉を用いる時と、コミュニティーという言葉を用いる時…そこに少なからずの違いを感じるがゆえに、言葉を使い分けている自分がいる。
以前、「コミュニティアートの今~日英の対話から~」と題した特別公開ラウンドテーブルに参加したことがある。イギリスからお招きした講師の方に基調講演をして頂いてから日本のコミュニティーアートの現状と可能性を探るといった内容だった。当時私は、東京都国立市に暮らしていて、その国立市で、文化庁の助成事業「文化芸術による創造のまち」の一つ…「くにたちアートプロジェクト」の実行委員会として、また、くにたちアートプロジェクトの中の幾つかの事業に関わっていたことからの少なからずの使命感もあって、CommunityArtを無視することはできなかったという背景もある。
ただ、あの当時もいまも、私にはCommunityArtしている…という意識は全くと言って無いものの、私が関わりを持って進めている「場づくり」がCommunityArtと見られることや、私の活動の大半がCommunityにおけるArtの可能性を探り続けている…という点から、そもそも小池さんのArtとCommunityArtの違いは何であるのか…と質問を投げかけられることは多い。
ただ正直言って、私にはどうもCommunityArtという言葉が入ってこない…それはコミュニティーアートでも同じことだ。
私自身それはいったいどうしてなのだろうとずっと思ってきた。
と同時に私は、Artには私たちがCommunityにできた、大きくて深い溝の上に架ける橋となり得る可能性があると信じてきたしそれはいまも変わらない。
でも、いくら信じていようが経済は私と無縁では無い。様々な活動に対して経済的な問題は大きく重く私の上にのしかかっている。
もちろんそれは私の問題…それは私がそれをしているから…であって、Artの可能性そのものは私に資金があろうがなかろうが全く変わることは無い。ただ、私が抱えているこの問題…Artと経済の関係についての問題をいつまでも先送りにしていては、所詮Artは絵に描いた餅だと言われつづけるだろう。
「無いのなら無いなりに…、有るなら有るなりに…」という方法…自分の生き方はこの先もどうやら変わりそうもない。
でも、「無いのなら、無いからつくるしかない」…そうやってもがいていると、不思議なことに、その先に様々な共同の姿が見えてくる。そこにCommunityとは何であるのかが見えてくる…。
つくるために、Communityと関わるうちに、つくろうとしていたものは変化せざるを得ない状態になることもある…。
でもそうやっているうちに、自分が本当につくりたいものが何であるのかが見えてくるような気がする。
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