「自己責任という人間観が浸透し、内面化している

~それはもはや世代ではなく、この社会全体のことを指す」

新自由主義(ネオリベラリズム)」の本来の定義は、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入を最低限とすべきと提唱する経済学上の思想。

国民の健康や財産の安全を保証するための公的な規制、公正で安定した商取引を維持するための規制を,できる限り撤廃して経済活動を最大限自由に行えるような環境にして,社会全体の富を大きくしようという考え方は、言い換えれば経済に対する政府の介入を否定する考え方であるはずが、どう考えても、そうした定義に当てはまらない政府主導の政策や考え方が新自由主義と呼ばれている現実に出会うことが実に多い。

日本において新自由主義改革を推し進めたことで記憶に新しいのは、とは言え、もはや20年以上も前のことだが…、小泉純一郎元首相・竹中平蔵経済財政政策担当大臣による、小泉構造改革と呼ばれる政策。小泉内閣が郵政民営化を筆頭に次々と新自由主義的な改革を推し進めた結果、規制緩和の考え方は雇用政策にまで及び、実現したのが派遣労働の自由化だった。これによって、それまであった専門職の派遣に加え、製造業に関する派遣も解禁され、急速に派遣労働者の数が増加することになったものの、2008年のリーマン・ショックを発端とした景気の悪化の影響による大量の派遣切り問題が深刻化。これによって労働者派遣の規制緩和を推し進めた新自由主義政策に対する批判が一気に高まることになった。

すごく簡単に言ってしまえば、日本に於いては「派遣労働の自由化」によって、派遣切り=新自由主義=格差拡大→貧困 という構図が明確になったとも言えそうだ。その一方、公共工事をはじめ、小泉・竹中時代から現在まで延々と続く様々な企業利益優先策とは、結局のところ、一部の能力のある人が豊かになれば,その人たちがお金を使い、税金を払ってくれることによって,その他の人々にもその恩恵が行き届くという新自由主義的な考え方から抜け出ることが出来ないということなのだと思う。

その意味からして自分は、安部政治以上にこの国に深刻、致命的なダメージを与えた一撃は、小泉構造改革によると思っているのだけれど、そうした影響が最近になって社会の中に新しい姿となって現れはじめていることに特に注目している。

少し前、時々見ている東京新聞デジタルの記事に目が止まって、ブックマークしておいたことを思い出した。

>社会学者の伊藤昌亮が、毎日新聞7月12日朝刊の「論点・どう見る『石丸現象』」の中で、石丸を「ネオリベラリズム(新自由主義)的な『改革保守』のポピュリズム(大衆迎合主義)政治家」と捉える。石丸の著作は「自己啓発本」に分類され、演説や集会は自己啓発的な雰囲気が漂っている。彼の発するメッセージは「『自分を信じて着実に努力し挑戦すれば自己実現できる』といったニュアンスが強い」。これが自己責任という人間観が浸透し、内面化している世代にフィットしたというのだ。<

東京新聞デジタル<論壇時評>「石丸現象」が示したもの 自己責任社会 権威への異議 中島岳志 2024年8月1日 07時00分 配信

「自己責任という人間観が浸透し、内面化している世代」…。

自己責任という人間観 とは、新自由主義的人間観ということになるのか。

その人間観が内面化しているとは既に、本来の新自由主義の定義はどうであれ、そういった社会の中に生きているということを否が応でも認めざると得ない…それが現実であり、この現実にフィット出来る人と出来ない人がいてもそれは自己責任だから…ということなのか。

そんなことを思いながら、その世代に属していない自分は、いまの社会における様々な問題について、「自己責任」という言葉で片付けることの出来ないことを抱え込んでしまっていることが実に多いことに気が付く…。

だからと言って、けっして正義感ぶって言っているのでは無くて、この世のすべてに対して、自分は何処かしらで関係している…、否が応でもこの世のすべてと自分は繋がってしまっている…と思っている自分は、例えば原発にしても、例えば死刑制度にしても…、どうやってもそれを自分とまったく無関係のこととして考えることが出来ないだけであって、「自己責任という人間観が浸透し、内面化している世代」のその考え方を単純に間違っているとは思っていない。

ただ…、子供の不登校率が増え続けているといった現実や、鬱病をはめとした様々な精神疾患や体調不良を抱え持つ人々、高齢者や障害者といった人々は「自己責任」では片付けられない、この社会の現実の中にあるはずだし、いつ何時、自分がそういった社会的弱者の側に立つかもしれない…と想像した時、そうした問題を、「自分を信じて着実に努力し挑戦すれば自己実現できる」だけでは解決出来ないではないかと思ってしまうのだ。

先の論説にあった『石丸現象』に代表されるように、もはや新自由主義は、「自己責任という人間観として浸透、内面化し、本来その言葉が持つ意味とは別の意味へと変貌している。

そうだとは言っても、新自由主義から派生し変化したとも言えるこの社会のままでは、強いものをより強くし、弱いものはより弱くなるといったことが避けられないだろうし、人々の心のモラルは低下しやすくなると同時に、自分に直ちに影響しない環境が破壊されようと気にも留めなくなってしまう危険性が増加する…。

現代社会の状況を一言で言い表せば、「格差社会」としか言いようがない。

しかし正直言って自分は、この「格差社会」といった状況が単に悪い状況だとは思っていない。

社会はあくまでもこの世の現象に過ぎないし、格差が是正されたその先で理想的な社会が実現されるとは思えない。

そもそも格差社会という言葉が、収入や財産などの要因によって生じる人間社会の階層化と階層間の遷移が困難な状態を意味する…そういった捉え方そのものが新自由主義的ではないのか。

自分より下の階層だと決めつけて、自己責任だ…、と言ってマウントを取る…。

格差社会という概念が社会に深く浸透すればするほど、自分より上の階層に従属しようとする人が増え、権威に従うと同時に、自分より下の階層に対して権威を振りかざす…といった構造がより強くなる。

大切なことは、この世の全体にとって、強いとか弱いとか、成功とか失敗は無いということについて深く知ることではないか。

強いとか弱いとか、成功者だとか、エリートだとか…はすべて、人間の都合によってつくられた基準の中に、自らが縛られ、何処にも逃れられない状態の中に生じる概念ではないのか。

てんから やくめなしに おろされたものは なにもない。

私たちは誰しもがこの世にとっての役目を背負って生きている。

自然に感謝。

近いうちに、新しい「場づくり」を始められそうです。

悶々と考え中…この詳細についてはまた。

Gallery MAZEKOZEでは、12月27日まで

「四辻藍美 アイヌ刺繍展」開催中です。

※写真は、三井さんから勝手にお借りしました。

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