GalleryMAZEKOZE(2階)の壁面すべてを白い壁にしたのは一昨年の4月。
同じ大学出身の大先輩でもある、写真家・山本糾 展に合わせて、Galleryスペースを改装し、それ以降、2階Galleryは主にArtを中心に企画展を続けている。
その後、昨年の9月に、MAZEKOZEから西へと続く谷間を鬼無里方面に15分ほど行った川沿いにStudioを新たに借りることが出来たことから、MAZEKOZE 1階の半分を占めていた自分の仕事場というよりも物置状態だったところからすべての荷物を移動し、仕切り壁を取り払い、新たに窓をつくり、しばらく停止していたCafé機能を再開させるべく許可を申請し、1階のCaféスペースがおよそ倍の広さになったことから、以降、その一角はTable Galleryとして利用している。
長野市の人口は約37万人、長野市に接する他市町村を合わせれば、およそ50万人?ほどの人がこの地域の生活圏を形成しているということになろうか。
しかし、約50万人の生活圏というそれなりの人口、それなりの文化的背景がある地域であるとは言え、Gallery の数はとても少ない…。
“地方では美術やArtは売れない“ は、多少でも美術やArtに関わっている人であれば、納得せざるを得ない現実で、それからすれば中核都市である長野市であるとは言え、Galleryが少ないのは当然のことなのかもしれない…。
県庁所在地でもある長野市には国宝善光寺本堂を要する善光寺があるし、その隣には数年前に完成したばかりの長野県立美術館もある。周辺地域や隣接する市町村には私設美術館や博物館が幾つもあることからすれば、このあたり一帯は文化的な地域だと言っても差し支えないのかもしれない。
地域社会の文化の一端を担うという意味からして文化施設の必要性、重要性は否めないけれど、公共性ある美術館や博物館は、“Artや芸術を売ること” を目的としていない。
しかし…であるならば、美術館や博物館が公共性を持って築かれ、運営されているのは何故なのか?
その問いとは、「公共性」とは何か?ということでもあって、その公共性が美術やArtを必要としているからこそ、美術館はあるというのは果たして本当なのか?
一方の、美術・Artは公共性をどう必要としているのか?
自分は、それとはすなわち、“文化とは何か?”という問いであるのだと思っているのだが…。
Cultureを日本語に翻訳すると「文化」と訳すのが一般的だ。
ラテン語からから派生したドイツ語の Kultur や英語の cultureは、「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つそうで、西洋に於いて、文化の概念がほぼ確立したのが19世紀(1800年代)、この時代にArtという概念も確立したことからすれば、二つの概念は密接な関わりを持っていたと考えることが出来る。
この時代の西洋全体が、フランス革命に代表される、絶対王政から市民社会へと変貌する流れの中にあり、それまでには無かった「文化」や「Art」という概念が市民社会にとって必要であったからこそつくられ、それを具体的に示すための美術館や博物館がつくられた。
そう考えれば、美術館や博物館とは、正に市民社会にとっての「文化の象徴」であったと考えても間違いではなく、そうした概念がいまなお、美術館や博物館の公共性に深く関係していると考えることが出来そうだ…。
かつて、文化という概念が成立した19世紀の西洋社会では、文化は遅れた状態から進化するものであり、その進化の仕方は全ての文化において同一であると考えられていて、そうした中で、西洋文化こそが最も進んだものであり、そのほかの文化は進化の先端たる西洋文化にたどり着いていないという考え方が主流となっていた。
こういった時代に明治の時代へと変わった日本は、西洋文化を取り入れることによって文化的遅れを取り戻そうとしたと同時に、欧米列強による支配から免れる為、そして西洋と肩を並べる為には、西洋文化が必要だと考えたのであろう…。
しかしこういった考え方は、自分の育ってきたエスニック集団(族群)、民族、人種の文化を基準として、他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想であるエスノセントリズムや植民地主義と強く結び付き、文化に対するこうした捉え方は結果的に、2度の世界大戦を引き起こしてしまったことからすれば、戦争や紛争という行為には、「文化」に対する理解が深く関係しているということを私たち誰もが忘れず、意識し続けなければならないのだと思う。
現代においては文化によって他文化の排除を図ることは望ましくないとされ、文化の多様性が称揚されつつあるものの、依然として文化に対する認識の違いが争いの火種となっていることはあまりに多い。
“文化”に対する認識の一致は極めて難しいがゆえ曖昧で、そのために市民社会における文化はある意味、絶対的な権威を持ってしまっていて、文化という言葉によって包み込んでしまえば大抵の面倒は回避出来てしまうという側面がある。
自分は、だからこそ、美術館や博物館があるべきだと思ってはいるけれど、美術館に行けば美術やArtが展示されている…というだけでは、美術館の役割は果たせているとは言えないし、美術館、博物館が公共性を持って有るからには、社会との関係性における文化が果たすべき役割を、広く、解りやすく、美術やArtをつうじて伝えなくてはならないと思っている。
公共の美術館や博物館が幾つあったとしても、そうした役割が果たせていないのだとすれば、それは単に建物があるに過ぎないし、美術館や博物館がそうした役割を果たせるようになるためには、公共性を伴わない、自由で活発な議論が出来る場が必要だ。
Gallery MAZEKOZEに限らず、小さな場が多数あることこそが、美術館、博物館にとっての公共性を育むことに繋がると思っている。
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