山に暮らす友達の のぶちゃん がFBに投稿していた文章に心の奥で震えるものを感じた。
こういう感覚は実に久しぶりだ。
私たちが生きるこの地には古くから言霊(ことだま)と呼ばれる、“言葉に宿る霊的な力“ 信じられてきたけれど、それはまた、真に心の底から沸き起こった言葉であれば、距離が離れていようとも、たとえ誰かを介したとしても、真の言葉には、響き続け魂を震わし続けさせる力が宿る…ということなのだと思う。
小説や詩や短歌、エッセイでも日記でも。
微塵も企みの無い言葉…つくられた言葉では無い…
そうした言葉は、やはり降りてくるもの…というのがふさわしい。
facebookというシステムを介したとしても、発せられた言葉にそうした力が宿っているとすればやはり同じだろう。
…けれど、その下の方にあるシェアというボタンを押しても、自分の中の魂がその言葉に同調し響いたことを…その言葉を響かせ続けることができないのではないか…と自分は思ってしまう。
そもそも言葉の響き(ヒビキ)とは、何があっても壊れないような頑強なものでは無い…
言葉が発する響きのエネルギーがいくら強くとも、言葉とはほんらいとても繊細で微細で壊れやすいものだ。
この世にあるものの中でも極めて純粋であるがゆえに…世界中で、霊…あるいは神は純粋で壊れやすいものを好むと信じられてきたように…言葉の繊細さ純粋さには霊が、魂が宿りやすいと信じられてきたのだろう。
それはちょうど、コップの中にストローを差し込みぐるぐると同じ方向に回し続け、そっとストローを抜いた時に残る渦のようなもの…それが響き(ヒビキ)
その渦を、響きを乱さないように…渦が次第に弱くなりやがて水の動きが止まるその瞬間まで大切に響かせ続ける…。
この繊細で壊れやすいものをどうやって次へと渡そうか。
言葉を響かせ続けるにはどうしたらいいのか。
この世にArt があり続けていること、自分がずっとそれに魅了されているのもきっとそれは「響き」を感じるからなんだと思う。
…ということで、のぶちゃん、
文章をそのまま載せさせてもらいますね。
これで響き続けるのかどうかはわからないけど…。
******************************************
「チューニング」
『いくら祈ったって世界は平和になんかならないじゃないか』と思う時期もあった。
でもある時、ふっと気がついた。
いのりがあるその時、こころはとても平和じゃないか、
そしてそれを知っているじゃないか、と。
願いとは違う
何か自分を生かしているものに、チューニングを合わせる時
流れてくるエネルギーがある。
光のような、水のような、電気のような、、、
あぁそうだ、この感じ、つながっている何か。
ひと時、平らに澄んだ満ち足りた気持ちになる。
私がアートに希望を抱くのは
人がこの感覚を捉えて、表に現そうとする、
自由な魂の営みだと感じるからなんだ。
武器を持たないその手で何かを表現しようとする者にとって
『いのり』は
少なくともゆるぎない感覚と
生きる力を与えてくれるのではないかと
私は思っている。
そしてそれは当たり前のように 自然に
日々の 暮らしの中にあっていいんじゃないかと思う。
******************************************
写真は、のぶちゃん がつくったTLUD
まさに 山の祈りのStove って感じ。
コメントを残す