ふと、生命科学者の柳澤桂子さんを思い出すことがある。
今日も仕事場で鉄にバーナーの炎をあて真っ赤になってゆく様を見ていたその真っ最中に思い出した。
直接お目にかかったことは無い。
私はあくまでもその文章をとおしてしか柳澤桂子さんを知らないけれど、「生」と「死」はおなじ価値をもつこと…を私に気付かせてくれた私にとってとても大切な方。
激しい痛みと全身のしびれを伴う原因不明の病に苦しみながらも30年以上にわたり病床から執筆され続けている。
自分の中の免疫の異常に気付いて2年になる。
痛みは心身のバランスを崩し思考を停止させる。
誰を責めることもできない、我が身にふりかかった現象をただただ受け入れるしかない状態の中で、我が身の「生」では無い「生」を考えることはとても難しいことであることを知った。
でもその時、私は心のどこかでそれを望んでいたことだとも思った…。
免疫の異常に気付いた同じ年の暮れ…眼底の網膜上の血管が出血し、右目の視力は極端に低下した。
そのことに恐怖を感じていない自分を不思議だとも思う。
自分を生かしている生命力を感じる。
散りどきが近づくと、葉のつけ根に離層と呼ばれる組織ができ、葉が散る準備は整えられる。そして、美しく色づいた葉は音もなく散っていく。
もし、紅葉の一葉ひと葉が散る苦しみに声を立て、嘆き悲しんだらどうであろうか。となりの葉が散った寂しさと悲しみの涙にむせんだらどうであろうか。
紅葉した山は葉のうめきで全山揺るがされるであろう。紅葉は音もなく散ってほしいと思う。
同様に自然のなかの一景として眺めたとき、人間の死もまた静かであってほしいと願う。美しく色づいた葉が秋の日のなかにひらひらと舞っていく。葉の落ちたあとの樹の梢には、冬芽の準備がはじめられる。死はそれほどにも静かなささやかなできごとである。
「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」
柳澤桂子 著 草思社
「おわりに」 より 抜粋
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