『差』あるいは『歪』

人間の思考のうち、自分自身で自覚ができている部分はおよそ10%程度らしい。
意識として外部に見えている表層部分に対して深く影響を与える深層部分…すなわち深層心理は、幼少期や思春期における体験や事故や失敗などの劇的な体験などによって形成されると考えられているが、そうした深層心理に大きな傷を負った場合はトラウマ(心理的外傷)となり、パニック性障害や強迫神経症、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など…その後の行動に多大な影響を及ぼすこともある。

自分の思考でありながらも自分の意識では制御しようの無い思考…そこには『心』が多大に関係しているとはいえ、その『心』とは私たちの思考では計り知れない摩訶不思議な何かである。

東京から長野市に暮らしの拠点を移して4年…最近になってようやく『ここ』…長野というところがどんなところなのかが見えてきたような気がしている。
ただ、『ここ』が生れ故郷であるとはいえ、いまのところは『ここ』ですごした年月の大半が、いわゆる子供時代であったことからすれば、自分の深層には、幼少期から思春期における体験…子供の視点によって見たり感じたりしたことによってつくられた『ここ』のイメージがその大半を占めているとも言える。
イメージがそうした深層にあるものである以上、深層心理そのものがはたして無傷なのかどうかすら当の本人ですら解りようは無いということだ。

4年前…とにかく私は家族を連れ『ここ』に戻ってきた。
それは私の表層にあらわれた意識がそうさせたというよりは、私の中の深層にある何らかの意識がそうさせたのかもしれない。
もしかすると、東京という土地で生きることをつうじて、私の深層は大きく傷を負ってしまっていたのかもしれない…。

幼少期から思春期という成長と共に積み重なってつくられたであろう『ここ』に対するイメージは、既に自分にとっての深層心理として強く表層部分に対して影響し続けていることは間違いないけれど、いま自分が重要だと感じているものは、その深層心理では無く、そうした深層心理の上に折り重なった体験や思考によって様々に現れる『差』あるいは『歪』のようなものだ。

その後、東京という土地で長く暮らすことによって育まれた 見かたや考えかたによって『ここ』…長野という場をイメージし、それを自分の深層部分の上に重ねあわせる地味な作業…何をどう重ねあわせてみるかによって『差』あるいは『歪』は異なって現れる。

時に作品としてあらわすもの…あるいは、仕事として表現する様々なものは、私が感じた『差』あるいは『歪』の先に生じる“何か”ではあるけれど、それらは私の深層心理の上に重ね合わせることによって現れた…いわば私にとっての主観…私が勝手にそう感じただけのもの…、
作品や表現が必ずしも鑑賞者を納得させられる『差』や『歪』であるとは限らない。

美術とは何か…なんてことはもはやどうでもよいことだ。
私は美術のための美術には全く興味が無い…。

自分の心の奥底を…自らを覆う堅い表層の奥底にある自分自身ですらコミットできない深層部分を想い続けたい。
それは何かをつくるためでは無い。
それは私たちを含むこの世に存在する全ての「いのち」を輝かせ続けるためのエネルギーは私の内にある ということを信じ続けること。

未来とはその先に在り続ける姿だと私は思う。

DerekJarman(デレク・ジャーマン:映画監督)は、チェルノブイリ事故のあった1986年、原発にほど近いイギリス南部ダンジェネスにあった漁師小屋を手に入れ、それからの7年間、ProspectCottageと名付けた小さな小屋とその庭についてのノートを1994年 エイズによって亡くなるまで書きつづけた。

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