「熱」

このところずっと…それはあの日 3.11からさらに強く…心の奥底で燻ぶり続けている何かを感じる。
なんとも形容しがたい何か。
焦りにも似た 悩みにも似た 悲しみにも似た 感情と入り混じりながら。

あえて自己分析するとすれば、この状態は燃焼の前段階にある。
燃焼に必要なエネルギーが心の奥底の燻ぶりと共に蓄えられているのではないかと…。
ここで言う燃焼とは、成長 あるいは 成長に伴う行動 に近い意味を持つ。
燻ぶりによって生れるエネルギーとはこうした成長に必要な栄養素のようなものだ。

エネルギーの蓄積と燃焼の関係は、樹木の成長過程が後に年輪となって現れるのと同じように、いま・ここ という一地点で関係性を確認することは難しい。
成長は瞬間では計れない。
生命とは成長し続けようとする力そのもの。
生命はこの世との関係性を絶えず求め続けている…。

そうした観点から成長を考えてみれば、そもそも成長を計画する必要は無いし、そもそもそれは不可能なことだと私は思う。
本来的にはおそらく、人の成長にとっては“ほったらかし”が一番良いのではないか と思う。
けっして一人にはしない。信じてじっと見まもる…。
関係とは本来そんなものなのではなかろうか。

成長を常に“いま・ここ というポイント”に立ってイメージし続けることは極めて重要だ。
計画に沿うだけを良しとする成長計画など、生命本来が持つ輝きを鈍化させる方向に向かうだけなのは明らか。
関係性が損なわれ、孤立感が社会全体を覆いつくそうとする気配が満ちているいま…そうした対策に躍起にならざるを得ない状況にありながら、それでもなお追求しなくてはならないグローバル化や成長計画などあり得ない。

生命とは奇跡的な関係性の上に現れ出た姿そのもの…全ての生命は関係性なくして
あり得ない。
燃焼エネルギー あるいは 成長エネルギーそれだけでは、燃焼も成長も始まらない。
燃焼…あるいは成長が始まるためにはそのきっかけとなる熱が必要だが、私たちをつかさどる生命と同じく、そのきっかけとなる熱は自らの内から…おのずからは生じない。

エネルギーとは持続性を促すもの…それは質と量を持ついわば電圧のようなもの。
そのエネルギーを燃焼させるためにはそのきっかけとなるなんらかの熱源が必要で
熱は温度あるいは強弱を持ついわば電流のようなもの。
それはたとえば、出会いであったり別れであったり、喜びであったり悲しみであったり…。
成長を電力のように換算することはできないけれど、どのようなエネルギーがどのような熱によってどう燃えたか…そうした生命の成長が年輪のように刻まれながら成長を繰り返すのだろう。

問題は、自分の内に蓄えられるエネルギーをどうやって燃焼させるか…
そのための熱はなんであって、どこにそれを求めるのか ということだ。
燃焼性エネルギーは、ある特定の熱にだけ反応し燃焼を開始するわけではない。些細なきっかけであっても燃焼しかねない危険性を孕んでいる。そしてなにより、それは自らの判断に委ねられているということを私たちは忘れがちだ。

絵を描くことも、カラオケで思う存分歌うことも、憎悪や暴力をかき立てるようなヘイトデモも、反原発を訴えるデモも…
それらはみな、エネルギーと熱の関係の結果であることに於いては変わりない。
だからこそ、そのエネルギーはいつどのように蓄えられたのか…そのエネルギーをどのような熱によって燃やそうとしているのかを私たちは真剣に考えなければならないのではないか。

怒りの方向に向いてエネルギーを燃やしてほしくない と思う。

そんなこんなを思っている梅雨入りしたらしい今日…
この人のコラムを読んでちょっとだけ燻ぶりがおさまったような気がする。
http://www.newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2013/05/post-679.php

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