学習指導要領は、文部科学省が告示する教育課程の基準。
全国、どの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省が、学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準を定めたもの。
「学習指導要領」は、戦後すぐに試案として作られ、現在のような大臣告示の形で定められた昭和33年から。ほぼ10年毎に改訂され、現在、小学校では平成23年4月~、中学校では平成24年4月~、高校では平成25年度入学生~「新学習指導要領・生きる力」に基づた学校教育が行われている。
生きる力を育むために、子どもたちの未来のために…で始まる、「新学習指導要領・生きる力」は、>子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。<
と謳う。
いじめや体罰、不登校といった、学習の方法や学力に関する問題ではない、学校とは、教育とは…といった、学校そのもの在り方が問われる声が大きくなり続けている今…こうした疑問や問題意識も絡めた国としての方針が、『新学習指導要領・生きる力』なのか。
そのいっぽう、全国一定水準を目指す学習指導要領ではつくり得ない教育を求める声は昔からもいままでずっとあり続けてきた。
自主学校やフリースクールなど、国の方針からは一線を引いた学校づくりをつうじて、教育とはいったい何であるのかを考えようとしてきた人々は数多い。
学習指導要領と脱学習指導要領…この間にできる深い溝の淵に立たされているのは、いまも昔も変わらず、子供たちだ。
どんな教育を選ぶかはもちろん自由だし、子の親である大人がその子どもが受ける教育を…学校を選択するのは仕方のないことだとは思う。
でも正直言って、人の育みにとって学校教育は重要ではあるものの、所詮 学校は学校でしかない…教育なんかで人の根本は変わらない…と私は思う。
もしも仮に、一時の間、教育によって変わったように見えたとしても、やがてはその人本来の姿に…その人をつかさどる生命が赴く方向に向き直る…それが『自然』なのだと思う…私たちは誰もみな、自然には逆らえない。
教育とは、自然に逆らわず、生命の赴くままの自分へと振り向けるためのきっかけのうようなものではないか…。
教育が人をつくるわけでは無いと私は思う。
それは例えば、服をつくる時に使う型紙のようなもの。
誰もがいきなり服がつくれるわけではない…その方法は色々だろうが、服をつくるためには何かから、誰かから服づくりを学ぶ。
学ぶことが楽しい人もいれば、辛く感じる人もいるだろう。
私は教育とは、やがてその型紙が無くても…型紙に頼らずにつくれるようになるかどうか…どうすれば、型紙が無くてもつくれるようになるのか…型紙が有ると無し…その違いは何なのか…それをいつも頭の何処かでイメージし続けなければならないのではないかと思っている。
教える側も、教わる側も。
それは言いかえれば、「自分の力でこの世を生きること」のためにあるのではないかと思っている。
…。
不安があろうが、失敗しようが、自分の力で生きてゆく醍醐味を感じられるかどうか…それこそが私たちの生命が欲する大切な教育だと私は思う。
私は教育者ではない。
「新学習指導要領・生きる力」を否定するつもりも無いが、それを必要とすることも無い。
既存の学校教育であろうとなかろうと、どちらでも良いと思う。そんなことはどうでもいい…。
ただし、教育は人を人として自由にするためのもの。
教育に乗じて、人から自由を奪わないようにだけはして頂きたい。
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