「一本の線を引く」

娘の小学校入学というタイミングにあわせ、私たち家族は長く暮らした東京を離れ、私の生れ故郷でもある、長野市へと移り住むことにした。
あれからおよそ4年が経ったここ最近、寝ぼけまなこで、ぼやけたまま見ていたここに、ようやくピントを合わすことができるようになってきた気がする…いままで、なんとなく見えているので良しとしていたものが、ピントが合うことによって実はまったく違うものであることに気付いたような驚きと共に…。

私たちが暮らす ここ(まち)とは、山に囲まれている場所…では無く、ここ(まち)もまた山の多様な形態のひとつのあらわれであると気付いた途端、私の中で燻ぶっていたものが、すぅ っと 消えてゆくような…自分がなんとなく軽くなってゆくような気配を感じた。
そしてこの気配について考えた時、ふとダライラマ14世の言葉を思い出した…。

「砂に一本の線を引いたとたんに 私たちの頭には「こちら」と「あちら」の感覚が生まれます。この感覚が育っていくと、本当の姿が見えにくくなります。」

この世には、「こちら」と「あちら」の感覚が溢れている。
私たちはなぜ砂の上に一本の線を引こうとするのか。
その線によって生まれる「こちら」と「あちら」の感覚を育むことによって保つことができるものがあるがゆえ、私たちはこの感覚にいつまでも浸り続けようとする…やがてそこから抜け出すことができなくなる。
私たちがこの感覚を育み保とうとするものとはなんだ…。

私たちがこの世を生きている間、地球は太陽の周りを回り続ける。
その回数は人によって違いはあれど、太陽と地球との関係性が私たちをはじめ、この世の全てにも関係していることは疑いようもない…この関係性を私たちは生命と呼んでいる。
生命とは、「こちら」と「あちら」という線によって隔てることのできない繋がりの連鎖…時間という流れの中にあり、終わりと始まりを永遠に繰り返す現れ。
この世に繋がっていない生命は何一つない。

「こちら」と「あちら」という感覚は、止めることのできない時間を、
…永遠に繰り返す生命の流れを一時的に停滞させることのできる感覚だ。
私たちはそうすることで、一時的であれ『私』を感じることができる。
そしてまた、私を感じることによって、私の中の生命を感じることができる…。
でも、その感覚を長く持ち続けること…この感覚を育てるということはまた、生命を極めて危険な状態にさらし続けるということなのかもしれない。

私とは他の誰でもない私…されど生命は全て一体だ。
私の生命は私以外の生命と常に呼応し続けることによって保たれている。
いまを苦しく感じるのは、私の生命が苦しいからとは限らない。
私の生命が私以外の生命と呼応しているからこそ、いまを苦しく感じることもある。

一本の線を引く私…。
そこに感じる私。
私とはこの世の生命そのものの現れであることを忘れないでいたいと思う。

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