表面からは捉えにくい本当の心、表わしにくい本当の気持ち…こうした心情を私たちは真意と言う。
「ほんとうはどう思っているのだろう…」
日常生活の中でそう思うことも少なくはない。
表に表わされる言葉や行動からは捉えづらい真意。
とはいえ、真意とは単に表面とは逆であるとか裏返しと言う意味とは違う。
真意を察する気持ちを持つことは大切なことではあるけれど、真意ばかりを気にして、いま起こっていることが見えずらくなってしまっては元も子もない。
私たちの心や気持ちは、思考と大きく関係していてはいるものの、試験問題を解くような思考回路を辿ってもけっして辿りつけない…どこかにある。
真意は私たちの内の…どこか別の深いところから発しているのだろうが、自分の内から発しているからといって、必ずしも自分が自分の真意を捉えられるというわけでもない…。
私たちが思考で理解したり判断できる範囲を表層として、その下に何重にも折り重なって連なる…おそらくは、ある層は歪曲し、またある層は薄く途切れたりしながら延々と連なる層が私たちの心をつくり、そうしてできた心は表層に言葉や行動となって現れる。
心が傷つく…とはそうした層の何処かしらが傷つくということだが、傷つくというよりはむしろ、”心の形成層が剥がれた状態”といった方が正しいような気がする。
心の傷とは、層を形成する出来事に対する傷ではなく、層と層の間を繋ぐ部分の損傷…繋がりの途切れ…から生じるのではないかと私は思う…。
真意とは、そうした薄く脆い層が折り重なってつくられた心に包まれている。
考えてみると…
それはちょうど、地面の上に立って、土をじっと眺めながら、その内を、その先を想像することに似ている。
気がつけば、自分はそうやってずっと、自分が立っている場所について考え続けてきた。子どもの頃からずっと…いまも。
私はたくさんの人に教えてもらったし、教えてくれた人に感謝してはいるけれど、私が知りたいことについてを納得させてくれた人はいなかった…と思う。
どうしてここから草が生えてくるのか…川の水はどうしてずっと流れてくるのか…
どうして風がふくのか…。
図書館に行って、随分と色々な本も見てみたけれど、知りたいことはどの本にも出ていない。
そうじゃない…自分が知りたいのは、そういうことじゃない。
私の心の層は途中で剥がれず折り重なっているのだろうか…。
…こんな想いが湧いてくるのは、きまって何か手を動かして作業している時。
昨日も、寸法を測り材木を切っている時に頭をよぎった。
それは、心と体がほんの少しだけ離れたような感覚にも似ている…。
なんでこんなことしているんだろう…。
自分は、なぜこうまでして、ずっとつくることにこだわり続けているのだろう。
つくるたびに、自分はなぜこんなに辛いことをずっとしているんだろう…って思うくせに。
じゃぁ、やめれるのか…。
いや、やめれない。
私の内の何かが震える。
私の内で震える何かを感じる。
私の内の何かが外側にある何かと同調し震えている。
…。
真意は私の内に端を発し、私の遥か彼方と繋がっている。
真意はここにあるもの…私が見ている いまここ と絶えず繋がっている…。
見続ける。
それがほんのわずか、震えていることに気付くために。
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