「輝き」

結局のところ、モノであれヒトであれコトであれ…自分の意識という波動がこの世に存在するありとあらゆる生きとし生けるものと共鳴を繰り返す。それが私たちの一生であり、一生をかけて網の目のような生命という関係性が顕わになるのだろう。
山も森も人もまちもArtも歴史もこどもも大人も水も風も土も 好きなことも嫌いなこともみんな…。

このところ、あまりにも色々なことに関わりすぎなんじゃないか…と思うことも無くはない。既に私の表層の許容量はMaxに近づき、既にかなりの不安が生じているにも関わらず、それでもなお意識が持つ波動は、この世の様々となおも共鳴し続けようとする。ここに生じる不安はおそらく自分の未熟さゆえ…腹の括りかたが足りないから なのかもしれないが…。
意識の共鳴に自分がついてゆけず暴走し、随分と人にも迷惑もかけている。そのことについては心からお詫びしなければならない。
ただ正直なところ私は、自分の意識が共鳴するもの…それが目に見える見えないに関わらず、いまここに確実に存在する何かが発し続けている何か を、自分という生命をつうじて感じ続けること… それを自分にとってのこの世の生き方として選択した以上、時に抱えきれないほどの何かと共鳴することがあってもそれはそれで仕方の無いことだとも思っている…。

意識の共鳴は考えて行動する といった思考のはるか先…はるか前方で起こる。
それは私を媒介として何かと何かを出会わせ繋げる必要性があるから…それこそが生命力であり生命とはそうやって繋がり続けるものなのだ。
そしておそらく私とは、そこに生じる震動を感じるためのいわば装置にすぎないのかもしれない…
もしもそうだとすれば、私は いまここ に起こる超微細な震動をも感じる装置たらんとするべきか。
そうだとすれば、もはや「私がなぜそれを感じるのか」なんてことはどうでもよいこと なのかもしれない。

…とは言え、この”どうでも良いこと”があきらめきれない私…ここがもっとも難しい…。
これを難しいことだと思わせるもの…それをあまた自我と呼び、この自我が生命のに対して挑みかかろうとする度に、私たちの中に苦を遠ざけ、楽を引き寄せる心が沸き起こる。この世の表層はそうやってつくられているのかもしれない。

私たちの目に見えるこの世がどんな姿であろうが、生命とはそうやってまんまと有り続けるのだ…生命とはけっして尽きることの無い…私たちの渾身の想像など生命にとっては手のひらの上のほんの僅かな埃にすぎない。
私たちの いまここ は、生命にとってさほどの問題ではないのかもしれない…
でも、そんな生命の本質とその生命がもたらす自我との狭間でもがき続ける生き方がしたい私は思った。
…それが美術あるいはArtだとして、なんとまぁ、無謀な生き方を選んでしまったものだ。
でも、そうやってもがけばもがくほどに、こんなに暑い今日もまた、私の中にある生命は、まんまと輝き続けることだけは確かに感じるのだ。

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