「スイッチ」

山村に生れ育った私の父と母。

父の生家がある集落は、谷底にある最寄りのバス停から山道を歩いて40~50分は裕にかかるであろう山の途中、母の生家は30分ほどか…。
子供の頃、頻繁に連れられて行った、祖父母がいる家は、どちらも 山の家 だったけれど、そこに掛けられていた、自分は会ったことのない人の写真がいまもやけに印象に残っている。

その写真はもちろん自分にとって先祖にあたる人たちであって、自分が生れる前に他界していただけのことなのだが、自分は会っていないのに関係しているその写真に写った祖先との距離感や、山 のそこかしこにある、昔からずっと…に出会う度に、わかるようでわからない…わからないようでわかる…なんとも言えない不思議な感覚が自分の中を廻ってをいたことを思い出す。
山の家に暮らしていた私の祖父母は、既に皆 他界しているけれど、私にとっての山の家はいまも祖父母たちが暮らす家、会ったことの無い祖先と繋がる場所。

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私たち家族が東京から長野市に引っ越して、山とまちを行ったり来たりするようになって数年…昨年あたりからだろうか、山の家のどれもが、子どもの頃に感じていたあの不思議な感覚のスイッチになることに気が付いた。
それが単なるノスタルジーだと言われれば、それもそうかもしれない。
でも、ノスタルジーであろうがなかろうか私にはどちらでもいい。
山の家 を目にした時、目の前の存在や出来事が希薄になると同時にその向こう側にあるものが浮かびあがってくるような あの感覚…。

自分にとっては、そのスイッチの一つが 山の家 であって、必ずしもそれが全ての人に共通するものであるとは限らないけれど、自分が美術やArtに出会い、そこに何らかの可能性を感じ、いまも変わらず追い求めているのは、あの感覚へと誘うモノやコトなのだ…と思うようになった。

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美術やArtと呼ばれるもの、そのどれもが人の感性に働きかける可能性を持っている…そのことからすればそこに大きな違いはない。
人が皆、感性を持って生きているとすれば、本来、作品が優れているかどうかという判断は各自がすれば良いことだ。
美術・Art作品の評価は、ある特定の感性に委ねられた評価にすぎないことを私たちは忘れがちだ。
それはまた、私たち全ての感性に働きかけているはずの美術やArtは、出会い方、関わり方によって、その働きかけの行く先が大きく異なるということ…現代の美術やArtは、人それぞれの感性の多様性を阻害するものにもなり得る…といったとても大きな矛盾を抱えている。

 

そもそも「感性」とは何であるのかは極めて難しいことではあるが、人がこの世を生きる上で欠かせないもの…その一つが感性であり、この感性によって私たちは、自分とその他…自分とこの世の全てとの関係を感じることができている。
中でも「美」はそうした感性に委ねられた代表格ではあるけれど、嬉しいとか悲しいとか…怒りも喜びも、元気だとかやる気だとか…それらもみな、感性と大きく関係している。
そしてその感性は、持って生れる「本能的感性」とこの世に生きることを通じて育まれる「後天的感性」の総和であることは間違いなさそうだ。

 

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私は、職業を問われた時に「美術家です」と答えている。
…まぁ、そう答えて納得しているのは自分だけなのかもしれないけれど、美術が人の感性の育みに大きく関係しているということ…自分はそうした美術やArtに大きな興味がある…と気付いてから、「美術家」と答えることに戸惑いは無くなった。

感性に対する働きかけを考えた場合、美術やArt(それには音楽や演劇や身体表現、小説や詩も…)には大きな可能性が…いや可能性というよりはむしろ役割があると私は思っている。
その役割を認識した上で、『何時、どのようにしてどんな美術やArtに出会うか』をみんなで考えることは極めて重要だと私は思っている。

 

「そんなことはつくり手が勝手に考えればいい…」
…そのとおりかもしれない。
そんなことをみんなで考えるのは実に面倒臭い。
みんな、つくりたいからつくっているだけなんだし、そうすることが何よりも大切。
それぞれがつくりながら考えているんだからそれでいいじゃないか…。
余計なお世話だ。

 

でも、その面倒臭いところを誰かに委ねた先で、「美術の難しさ」だけが肥大し、美術やArtの専門家が必要とされてきたのではないのか…。
美術家も美術評論家も、美術館も、美術商も…。
美術やArtは難しいものである必要があるのか。

 

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人は「欲」を抱えて生きている。
強欲の塊だ。
この欲を欲のまま放置するのか…それとも欲を私たち自身の育みの糧として、生きる力をそこから学ぼうとするのか。
この世に生きる人々がどちらの道筋を選ぶのか…それは、この世、この社会にとってとても大きな分かれ目だ。
美術やArtがこの世にあり続けてきた理由もきっとこの分かれ目の先にある。
私たちがどちらの道に進むのか…その道を選択するのは私たち一人ひとり。

 

私たちはそのために感性の半分を持ってこの世に生れてきたのかもしれない。
そしてあと半分、
この世を生きることによってあと半分の感性が育まれ、そうしてその先が創造されるのだと思う…。

 

 

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