いま、本は売れないのだそうだ。
本は売れないという答えらしきものがどのようにして導きだされるのかわからないけれど、正直 私には、Artは売れない と同様、そうした類の論評は、世の中全体がざるの中で大きく揺すられ、そうした時に出る音の一つにしか聞こえない。
そもそも本が売れないこと…あるいは Artが売れないこと がはたしてこの世にとってのマイナスなのかプラスなのか。
本が売れないことが事実だとしても、それがそのまま、本の必要性が無くなったということではないはずだし、本が売れないことが嘆かわしいことかどうかはわからない。
私はいまここをこうして生きている…これが現実。
人が私をどう見るのかはわからないけれど、Artが売れるかどうかと美術家としてこの世を生きることができているどうかはまったく別の話しだと思う。
なにせ天邪鬼でお気楽者な私からすれば、本が売れない…Artが売れない…は、ようやくこちらに風が吹いてきた知らせのようなもの。
とは言え、売れているものに人の注目が集中し、売れないものからはさっさと遠ざかる傾向は益々明確になってきている。トレンドを追い求め右往左往する状況は相も変らずであることも否めない。
そうした状況を鑑みれば、トレンドとしての本の役割は終わりが近いということではないか…そしてまた、人の成長の大半が夜であることを思えば、本が売れない といった状況は、既に本が成長の段階に入っていると考えた方が良いのではないかと思うのだが…。
マゼコゼの看板の下には、私たちが東京都国立市で運営していたPlanterCottageで使っていた「図書館&ギャラリー」と書いた小さな木の板をぶら下げ、店の中には、私と妻が所有する図書館と言うには申しわけない程度の本が並べている。
子どもの頃から本は面倒臭いものだった私。いまも本が好きとはとても言えない。未だ読むのが苦手な小説はほんの僅かしかない…自分の思考性が如何に偏っているかを恥ずかしげも無くひけらかしているようなものだ。
でも、そんな本たちがあることでマゼコゼは随分と助けられている。
マゼコゼにとっての相棒…本はこの場づくりにとっての大切な仲間であることは間違いない。
人はなぜ表現するのか…表現とは何であるのか…について考えることは、人の道を照らす灯りのようなもの。
たまたま選んだ生き方が美術家という生き方ではあるけれど、道を間違えずにここまで来れたと思えるのは、美術やArtをつうじて道を照らす灯りを手に入れることができたから…。
そんな美術やArtに感謝を込めて、私が出会ったそうした美術やArtをもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思う。
私たちは誰も皆、この世に自らの生をあらわすことによって生きている。
それが本でありArtであり音楽であり踊りであり、米や野菜を育てることであり、木を植えることであり、山を登ることであり、走ることであり、泳ぐことであり…
この世に生をあらわせば生にふれる。
そこに熱が起こり、この世が一瞬だけ照らされる。
そうやってこの世に自分の他にも生があることを少しずつ知ってゆく。
あらわすとはそういうことなのかもしれない…と思う。
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