Cafe MAZEKOZEを運営している私たち…RIKI-TRIBALは、
黒姫高原の麓にある旧開拓農家での暮らしの場づくり…「はらっぱのーと」のお手伝いを始めています。
先週末は台風の影響であいにくの空模様でしたが、日曜日はその「はらっぱのーと」のお披露目?を兼ねた集まりもありました。
「はらっぱのーと」の場づくりのお手伝いではまず第一にトイレづくり。
いわゆる“ぼっとん式トイレ” を “コンポストトイレ(バイオトイレ)”につくり替えます。
コンポストトイレ…Composting toilet は、今を生きる私たちが忘れがちな「大切な何か」を感じ、気づくためにとても有効なものだとずっと思ってきました。
ですから、先の3.11があったからというわけではありませんが、3.11やその時から始まっている様々がさらにその気持ちを後押ししていることは確かだと思います。
これから少しづつコンポストトイレやその周辺のことについて私(小池マサ)なりにお話ししてみたいと思います。
3.11によって、社会が抱えた矛盾が見えてしまいました。
抑え込んでいた矛盾を抑えきれなくなった…、
その点からすれば、3.11以前と以後で大きな違いがあるような気もします。
安全・安心の前提が大きく揺らいでしまっているのも、そもそもそこに矛盾があったから…3.11によって安心・安全が抱えた矛盾を抑えきれなくなったのだと思います。
でも…、
矛盾は社会のみならず、人はそもそも矛盾を抱えながら生きているのだと思います。
…自慢なんかできませんが、私をたたけば矛盾と誇り埃しかでてきません…きっと。
もちろん矛盾は無いほうがいいわけで、矛盾を推奨する気もその必要もありませんが、
ただやみくもに、一方的に、“矛盾はあってはならないもの”とすることによって、矛盾は抱え込まれ、隠され、その結果、歪みとなって、さらに大きな大きな矛盾をつくり出してしまうのだと思います。
その解決策があるとすれば、それはきっと「抱え込まないこと」
3.11後のこれから。
「抱え込まなくていい」 そんなコミュニティーをつくりたい 心からそう思います。
安心や安全、便利さ、快適さ… 矛盾はどうもこのあたりに溜まりやすいということを多くの人々に気づかせたのが3.11なのかもしれません。
何億年、何万年という時間軸上のほんの一瞬である「今」を生きている私たち。
この世の中の全ては例外なく「今・ここ」を共有し…関係しています。
そうした関係が集まってつくられる網の目の中に、「今」そして「ここ」もあるのだと思います。
この一瞬である「今・ここ」は、例えれば、薄い一枚の紙の厚みのようなもの。
紙一枚の厚みを目で測るのは容易ではありませんが紙が何枚も重なれば厚みも目で計れるように、「今・ここ」が積層した結果が歴史時間という厚みとなって私たちに見えてくる、把握できるようになるのだと思います。
そして、薄紙一枚である「今・ここ」、その薄紙一枚一枚のあいだ…そこにあるのが関係性。関係性は厚みがありませんし目にも見えませんからそんな関係性だけが幾ら積み重なっても同じこと。
でもそんな厚みも無い、目にも見えない、曖昧で捉えどころの無い、あるか無いかもはっきりしない…そんな関係性によって「今・ここ」は積み重なり、それはやがて歴史として語られるようになる気がします。
私の最大の興味はそんな関係性。
RIKI-TRIBALでは、この目には見えない関係性を実感する為の有効な方法として、Artに、そして、自分でつくること に注目してきました。
とは言え、Artならなんでも、自分でつくればどんなものでも、関係性を感じられるとは限りません。
あたりまえなことですが、やはり重要なことは、「どうやってArtするか?」「どのようにつくるのか?」
自らの感性の働きによる『気づき』がそこにはあるのかどうかということだと思います。
私はずっと美術家でありたいと思い続けてきましたし今もその気持ちに変わりはありません。美術家とは職業というよりは、自らの感性の働きによる『気づき』を他者に示す生き方のことだと思っています。
もちろん私は作品もつくりますが、それはあくまでも生き方が招いた結果。
食事をして消化吸収して最終的に排出され出てくるアレのようなものです。
こんな例えを持ち出すと、私の作品は買ってもらえなくなりそうですが、Art作品の本質ってそういうものだと思っています。排出されたものだからといってそれが全てゴミ…つかえないもの…という意味じゃないんですね。人がゴミだと思っているものも私にとっては宝だと思うものはいくらでもあります。
そう、ボロボロの空き家なんてのもそうかもしれないですね…。
この続きの話は長くなりそうですからまたにしようと思いますが、だからこそ、コンポストトイレ…Composting toilet は、私を魅了してしまうのです。
それが自らの感性の働きによる気付きなのかどうかを判断することすら難しい現代社会。
「気づき」に対して常に敏感でいることはとても難しいことだと思います。
目には見えないものを感じようとし続けることは「今・ここ」を捉え、積み重ね、そして歴史となる為にはとても大切なことだと思っています。
それでは、今回はここまで。 小池マサヒサ記
The Humanure Handbook の2005年版
これまでに全米だけでも40,000冊売れ、現在は10ヶ国語に翻訳されているようです。
日本語版はありません。初版がMAZEKOZEにあります。
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