「マイノリティー」

マイノリティー:minority group とは、所属を余儀なくされた社会関係において、その属性が少数派に位置する者の立場やその集団であると解釈されがちだが、それは必ずしもそうとは限らない。
マイノリティーとはその集団が少数であるかどうかでは無く、むしろそれは、
社会階級という概念を根底としたピラミッド型の上下関係…ヒエラルキー型の権力構造に現れる「社会的弱者」の意味に近く、マイノリティーが社会的な偏見や差別の対象になったり、制度上の不利益を被ることもある。

先日、小学校5年の娘の授業参観日に、娘が同級生の母親から突然、一方的に文句を浴びせかけられ、その後、妻もその母親から同様に責め立てられるという出来事があった。
事の発端は、やんちゃな男の子たち数人が、給食を粗末に扱っていることを問題視した娘を含むクラスの子供たちの大半が、担任の先生にそれを注意して欲しいと何度も頼んだにも関わらず、その要求をまったく聞き入れてくれない先生に対する苦情を、懇談会の議題として取り上げて欲しいと、クラスPTA委員長に手紙を書いたことからだった。
その後、その男の子たち数人の親には、クラス委員長から、懇談会の議題に挙げることの了承を得るため事前に連絡したそうだが、それがどう伝わったのか…、男の子の一人の母親は、これは自分の子供に対する一方的ないじめである…と受け取ったらしく、そのいじめをしている張本人として、娘に詰め寄り文句を言ったということらしい。
娘は、それは勘違いであることを必死に説明したそうだが、聞き入れられず、その後の懇談会の席でも、子供たちの要求の話しにはならず、その母親の怒りは収まらなかったそうだ。未だ、娘に対しての謝罪は無い。

もちろん、娘の親として、娘に対する行為は許しがたい行為であったことは否めない。残念ながら、男の子の母親のとった行動は、暴力行為に他ならない。
しかしここで間違えてはならないのは、まず始めに問われるべきは、男の子の行為では無く、その母親の行き過ぎた行為でも無く、子どもたちの担任に対する不信が沸き起こってしまった…という事実であり、まずは、子供たちに、担任・学校・親が、如何に向き直るかこそが重要であるはずだ。

とは言え、この出来事は、思いもよらず、実に様々な問題を露呈した。
そして思う…はたしてこれは学校教育の問題なのだろうか…と。

社会とは目には見えない…。
しかし、今回の出来事を通じて、以前から思ってはいたものの、学校には社会が投影されているのだということをあらためて感じている。
学校を一つの社会に見立てれば、そこにもやはり社会関係が見出される。
見出されはするものの、学校が形づくる社会関係とは実に複雑で、単純なピラミッド型のヒエラルキーを形成しない…にしてもそこには、マイノリティーが常に存在する。
学校という社会関係におけるマイノリティー…社会的弱者とは誰であるのか。
マイノリティーが常に流動的に変化するのが学校社会の特徴なのではないだろうか…だからこそ、学校社会が抱える問題の本質は見えづらく解決しづらいのではないかと。

いまはまだ答えが出せていない。
でもいま 何となく思うのは、この流れに身を任せねばならないのではないか…。
子供たちが投げかけた問題の本質とは何であるのかということを見失わないためには、子どもと大人、学校と家庭…そういった境界線を越え、学びとは相互の関係性の中にあることを思い出さねばならないと思っている。

子どもたちが私たち大人に、ずっと学校が好きでいたいと言っているのだから。

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