「ほえる くんれん」

先週末の大雪の影響は大きく、スーパーやコンビニの商品のあれこれが品薄状態なようだが、先日、大雪の中はるばる東京から、マゼコゼで開催中の展覧会を見に来て頂いた方にお土産をと、近くのお店にケーキを買いに出かけた妻は、大雪の影響で生クリームが届かずケーキが作れないと言われ別のものを買って帰ってきた。でもこのお店、地元の厳選した素材…長野県産厳選小麦100% 、濃厚で深い味わいなオブセ牛乳、厳選したコクのある甘さの安心・安全たまご、地元蜂蜜 …でつくっていたはずでは無かったのか…と思ったりもしたのだけれど、まぁ世間には色々と事情もあるのだろう…。

その大雪が降る直前、娘の通う小学校のクラス臨時懇談会が開催された。
この臨時懇談会は、子供たちの担任の先生に対する切実な要望を、子供たちが授業参観の後のPTA懇談会の議題に取り上げて欲しいと書いた手紙が発端だった。
この手紙、子供たちの気持ちをストレートに書いた手紙だったとは言え、その内容の読み取り方によっては食い違いが生じる内容だったとも言える。
ある一人の男子児童の行き過ぎた行動を注意しない担任に対する要望が書かれていた手紙の内容は、結果、その男子児童に対する一方的ないじめだと受け取ったその男子児童の母親が、なぜか私の娘を一方的に責めたてるという事態を生み、これを期に、クラスが正常な状態ではないあれこれが明らかになった。
今回の臨時懇談会は、そうしたクラスの現状を各家庭の親御さんに知ってもらい、それに対する学校側の対応と家庭からの意見を聞く為のものだった。
懇談会は、思った以上の出席率に加え、出席したどの親御さんからも意見が聞けたことはとても有意義であったとは思う。
しかし問題の本質は依然として曖昧なままだ…。
このまま時間が経つことによって、曖昧さはより曖昧さを増し、そのうち何となんとなく問題は忘れ去られてしまうような気がするのは私だけだろうか。

いま起こっていることをあえて簡単に言うとすれば、「担任と子供たちとの間に信頼関係が築けていない」と言ってしまうこともできる。
だが問題の本質は、『それはなぜか』という部分であり、と同時に、こうした現状は娘のクラス、学校に限ったことでは無く、何処の学校でも少なからず、日本中の、あちらこちらの学校で日常的に起こっていることであることを否定できない現状からすれば、これは既に担任の力量不足だけで済ませられるような問題では無いと私は思う。
この問題は根が深い…私たちが生きるこの社会が抱えた様々な問題はきっと根の深いところで必ずや繋がっているはずだ。

もしも仮に、娘のクラスの担任が変わり、その結果クラスに落ち着きが戻ったとしても、それは根本的な問題の解決にはならないのではないか…。
もちろん、クラスや学校に落ち着きが戻ることを否定するわけでは無い。だがしかし、問題が起こったから対処する…といった対処療法的な対応では、子供たちに信頼とは何であるのかを教えられるはずがない。
そうした対応を幾ら繰り返しても、学校は決して健康にはならないはずだ。

もちろん自分も偉そうなことばかり言ってはいられない。
今まで教育を学校任せにしてきたことは事実であり、そのことについては深く反省しなければならないと思う。
学校との間に信頼関係は築けているのだろうか。
同じ学校に通う子供の親と私との間はどうだろうか。
同じ町に暮らす人々との信頼関係は…。

そしてもう一つ…
以前から薄々感じてはいたのだが、今回の臨時懇談会での話を聞きながら思うことがあった。
それは、「想像するためには、まずはできる限り対象物に近づいてみなければならない」ということだ。

これは、私の職業ゆえか(美術家が職業であるかは微妙だが…)
私の暮らしのほぼ全てに『想像』は欠かせない。
私にとっては人が呼吸をするのと同じく、想像することがこの世に生きる為に必要な本能にも近い。
この『想像』とは、ただ闇雲に、悶々と思いを巡らすと言うことではない…。
ある意味、想像は最終的な方法だ。
目には見えない、触ることも、匂いを嗅ぐこともできなくなって始めて想像力が働く…。
だから、想像する為にまずはできる限り対象物に近づく…もしくは、ありとあらゆる角度から眺めまくる…そしてもうこれ以上近づけないとわかって始めて想像力を働かすのだ。
想像とは、体全体を使うと言ってもいい…。

学校も家庭も地域も、お互いが近づきすぎることを警戒し、お互いの距離を均等に保とうとしている気がしてならない。
近づこうにも近づけない距離がそこにあるような…。
想像力を働かすことのできない一歩手前…絶妙な距離感に保たれたところに、学校が家庭が、地域がある気がしてならない。
そうした絶妙な距離感を保とうとする社会に噂や差別が生まれるではないか。
絶妙な距離感を保てないような人は、世間から『KY』と呼ばれ、隔離される、あるいは排除される。
踏み込むことも、踏み込まれることもできない境界線が引かれ、その距離を保てるかどうかが重要視される社会…。
子どもたちはその距離感を感じ、そこを越えようとあがいている。
その声が聞こえないのか。
…。
もはや、そんな目には見えない線と距離感をいつも気にして、情報を集めまくっているような状況では無いと思う。

もちろんこれは私の想像だ。
でも私のこの想像は、目には見えない境界線をほんの少しだけ超えてみたからこそできる想像なのだ。

お互いがほんの少しの勇気を持って境界線を超えてみること。
そこにはきっと今まで見たことの無い世界がきっとあるはすだと私は思う。

1609853_504974752955515_1776674484_n

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です