「言葉が思考を生み、この世へと繋ぐ。この世とは常に広がり続ける現象 ~ 話すとは離すこと」

ここのところ、学生の頃からの友人や知人との再会?が増えている。

再会?…というのは、随分と会っていなかった人とSNSなどをつうじてお互いの消息を知ることになった…ということで、そうした再会がきっかけとなって直接会ったり話したりすることへと繋がっている。

こうした傾向はSNSの普及率や使用率にが影響しているのだろうけれど、自分世代は年齢的に、仕事や子育て、親の介護などに追われていた生活から少しずつ解放され始める頃でもあって、自分中心の生活へとリズムが変化し始めたというあたりとも関係しているのだろう。

既にFacebookは年寄り用…などと言われていて、若者の利用率は低いようだけれど、コマーシャリズム一辺倒のSNSに比較すれば、年寄り傾向=コマーシャル効果が薄い…ということニなるのだとすれば、個人的にはそれはむしろ歓迎すべき傾向だと思う。しかし、Facebookは勿論のこと、SNS全体はこうした傾向を分析して、これまでとは違った戦略をへと変化してゆくであろうことは容易に想像できる。

自分の場合、SNSは主に便利な書庫機能として利用している(自分のBlogの更新は滞ったまま…)のだけれど、その時々の自分が捉えた社会と自分との関係を言語化した投稿に対して一つだけ自分に課しているルールがある。それは、投稿のすべてを公開で投稿すること。

言語化した思考…それは自分が“話す”ことであり、またそれは“離す”こととほぼ同義でもあると思っている自分は、自分から離した思考がやがて何処かの誰かに届き、そこから会話が始まることを願いつつ…。

自分が感じたこと、考えていることを、つたない言葉を使って言語化しようとし続けるのは、思考とはつまり言葉の連続性であって、自分に見えている“この世”とは言葉と思考によって出来ていると思っているから。

…だとすれば、この世とは常に広がり続ける現象…一瞬たりとも静止することなく変化し続けるもの、生命の姿そのものであると考えるべきであって、自分と社会との関係性、自分とこの世の全体との関係性について捉えるには、先ずは自分の思考でもある自分が発する言葉を自分から離すことが必要で、それが“話す”ということなのではないかと思っている。

子供の頃から鏡が嫌いで出来る限り鏡を見ないようにしてきた自分が、自らの思考を言語化するということは、心の中を鏡に写し出すようなもの…。

そんな自分が、もはや言語依存とも言えるほどに言葉と向かい合うようになってしまっているのは、かつて暮らしていた国立市の住宅街で、PlanterCottageと名付けた“場づくり”を始めたことがきっかけだった。

20代の終わり頃…。

美術は止めにしようとかArtが嫌いになったわけではなかったものの、作品を制作し画廊や美術館で発表するだけでは満たされない気持ちが自分の中にあることに気付いた自分は、だからと言って次にどうするかは何も解らないまま、とりあえず作品の展示と発表をすることだけは止めにしていた。

その当時、日本経済が急激に失速した時代であったことも多少の影響があったかもしれないけれど、いまにして思えばその頃になってはじめて、自分は、姿形のない目には見えない現象に覆われている…ということに漠然と気付いたのだと思う。

とは言え、何をどうしたら良いのか解らなかったその頃の自分は、ひょんなことから岩登り(Free Climbing)に出会い、のめり込んでいたものの、のめり込み易い性格が仇となって身体が故障…リハビリを兼ねてつくりはじめたのがPlanterCottageだった。

世間一般のイメージからすれば、美術家やArtistの作品発表とは、自分の考えを作品を通じて人に伝える…といったイメージか。

勿論、作品は美術家・アーティストの作家性と直結するものであるはずだし、作品とは作家そのものであると言えることからすれば。そのことについて否定はできない。

ただ、PlanterCottageをつくりはじめたその頃の自分は、作品を人に見て貰いたいというよりは、自分が人と出会うために作品はどうあったら良いのだろうか? ということばかり考えていて、それはつまり、“作品はあくまでもその先へと続く入り口に過ぎない“ということ。

以来、自分の美術作品に対してする考え方の基本はいまもその当時から殆ど変わっていない。

既に美術にしろArtにしても、経済との関係を無視出来ない現実の中にあることは事実。

作品に値段が付けられ、作品が作家から人へ、人から人へと渡ることによって経済が生まれる…。そうした作品を巡る流れの中に会話が生まれることも勿論あると思う。

しかし、美術作品がこの社会の何の役割を担っているのかと考えた時、作品が経済という流れの中を巡るだけで、美術は社会が求めに応じることが出来るのだろうか?と思ってしまう自分がある。

別の言い方をすれば、美術は社会の求めに対してどう応じることが出来るのか?…そもそも、社会の求めとは何であるのか?について、少なくとも美術家という立ち位置から考えなくてはならないのではないかと自分はついつい考えがちなのだけれど、そう思う一方、自分は既に美術家とは言えないのではないか?…と、悶々とすることもあるのだけれど…。

まぁ、兎に角、いまはとりあえず、誰もが、話すー離す ための場…、いずれそこに会話が生まれることをイメージしつつ、自分に出来る場をつくり続けたいと思っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です