新年の挨拶が溢れかえるSNSを眺めながら、さて、何から手を付けようかと思案中。
我が家…3人と一匹は、毎年恒例の戸隠神社参拝へ。森の中のカレー屋さんで遅めの昼食。
今年の戸隠は順調に雪が降り積もり、冬らしい冬。青い羽根の綺麗な鳥を見れたことは大きな収穫。いままで一度も思ったことも無かったけれど、今年は鳥を観に、またここに来たいと思った自分が不思議。
外国人観光客と思しき人達が長蛇の列をつくってバス待ちする光景は、今迄に無く新しかった…。
数年前から何となく考えはじめ、昨年あたりからずっと考えていること、“老い”
とりあえず、いまのところは、これといった身体的な不調や、体力的な衰えも殆ど感じてはいないけれど、だとしても、この世の原則として老いは自然、自分にも必ずそれは訪れる。
こういったことを考えるようになったことが、既に老いであるのかもしれないけれど、あたり一面、雪に覆われた森の中を飛ぶ鳥が何とも美しく感じるのは、美しさとは自然と近付いていて来るものであって、そういった自然さを感じるようになれるそこにも老いが大きく関係しているからだと思う。
人間社会は基本的に、不自由さを便利さへと変換する方向に向かって歩んできたとも言える。
…と同時に、社会は老いを不自由さをもたらすものとして、便利さを用いて遠避けようとしてきたものの、この世における生命の原則である“老い”は自然であり、その本質からすれば避けることも無くすことも出来ないものだ。
老いは身体的不自由さをもたらすといった意味で、個人的にも社会的にも、極めて大きな問題であることは間違いないけれど、社会が老いについてどう捉えるかこそが、ここに大きく影響するはずだ。
これについて自分は、老いが自然である以上、人間社会が自然をどう理解しているのかということを抜きにして考えることは出来ないと思っている。
人間の歴史とは正に自然との関係の中にあって、自然は人間に様々な災いを齎すものであると同時に、人間に様々な恩恵を齎すといった意味で、人間は自然と共にある…そのことについては誰もが否定出来ない事実であることは間違いない。
しかし、人間社会は、不自由さを便利さへと変換する方向に向かって歩みを進めて来たこともまた事実であって、この事実ゆえ、いつからか人間は、自然は不自由さをもたらす元凶でもあるとして、自然が抱え持つ不便さを便利さで覆い、自然を制御可能な状態にしようとしたことによって、自然の在り方そのものに対する認識が変化してきたと考えることが出来る…。
こうした認識を導き出す根底には、自然環境は人間によって利用されるために存在するという信念でもある“人間中心主義”があると思うのだけれど、こうした自然に対する認識が、人間社会と自然の在り方との間に大きな歪を生じさせ、その結果、生命にとっての自然である“老い”を制御し、あるいは、便利さによって老いを覆い隠そうとする方向へと向かっている気がしてならない…。
年頭から、このような投稿は重苦しくて嫌われるとは思うけれど、自分が今年、始めようと思っている幾つかの動きは、こことの関係抜きには出来ないと思っているので、勘弁して頂きたい。
この世にあって、見えないものを感じるための場が必要だ。
PlanterCottageからMAZEKOZEへと続いてきた場づくりは今年26年目。
ここに至る今迄は、その時々に必要な場をつくることをつうじて、目には見えないこの社会を捉えたいと思ってきたのだけれど、昨年あたりからようやく、自分は何故?ここまでして、場づくりにこだわるのか?について、何となく気付きはじめている。
その気付きを具体的に推し進めるために、考え、そのために動きたいと思う。
今年もどうぞよろしく。





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